☆気になるコトバたち


不断(えーっと語源的には「普段」ではなくてこっちだと思います)使っていて、どこか引っかかる物言い、

ありませんか?自分なりの、言葉の奥にある物の見方、考え方へのささやかな異議申し立てでもあります。


「ということもある/という人もいる」


と言ってもこれだけじゃ訳わからないだろうから説明します。何か意見を述べたり反論をしたりするときに
こういった物言いを耳にすることがある。例えば公共事業効率化の議論の中で、民間企業のノウハウを
取り入れようという意見に対して「利益追求だけでは一部の人が切り捨てられるということもある」という
コメントがあった。また少年の凶悪犯罪について「親は市中引き回し云々」という発言をした政治家が、
「よく言ってくれた、という人もいる」といって自説の正当化を図ろうとしていた。

ちょっと待った。「一部の人が切り捨てられること」はあってはならないが、民活即切り捨てという話はどこ
にもない。議論本来の目的である効率化を達成することと、その副作用を検討することはと次元が違う。
この人物は「自動車に乗ったら事故にあうこともある」と言われたら車に乗るのをやめるのだろうか。市中
引き回しの政治家は信念を持って発言したのなら、他人がなんと言おうが関係ないはずだ。これでは悪戯の
言い訳に「だって皆もやってるもん」と言う子どもと変わらない。

どっちにしても議論の本質とはずれた話である。本質からずれるのは、実はそんなのどうでもいいと捉えて
いるからかもしれない。官僚や政治家としてやるべきことではなく、その地位にいるためにしていることだ。
ナンシー関氏のいう「○○は芸能人ではなく、芸能界人」というのと同じことかもしれない。えーと、これで
説明になっただろうか。憶測で語られる副作用や他人の評価でお茶を濁す―当事者にその意識があるか
どうかすら疑問だが―より、まずてめえの意見をはっきりさせろよ、ということなんですが。

「前向き」


前向きであること、それは素晴らしい。でも向くのは前だけじゃなくてもいいんじゃないか。横も斜めも後ろも
ある。前向きで行こう、の掛け声をかける奴には気をつけたほうがいい。その前向き、誰にとってのプラスに
なるのか一回考えた方がいいかもしれない。

ある敏腕セールスパーソンの話を最近耳にした。相手を理解し、自分を活かして前向きに。それは結構。
だけど現実的に役にたたない百科事典や健康器具を売って業績を挙げることの意味ってなんだ?それとも
こういう俺って後ろ向き?

「意味ないじゃん」


無意味な会議、無意味な高速道路、無意味な戦争―そんなものない方が世の中すっきりする。しかし
最近感じるのだが、会話の中の「意味ないじゃん」には結果の見えない事柄への醒めた視点を感じて
違和感を覚えることがある。意味ないかもしれないけど、もしかしたら意味なくないかもしれないじゃん。
君には意味ないかもしれないけれど、他の誰かには意味あるかもしれないじゃん。

この親戚はもしかしたら「面白けりゃいいじゃん」かもしれない。そりゃ中身がなくて御託だけ、つーのは
ありがたくもないけど、面白くても他の誰かは嫌かもしれないじゃん。どっかで割り食ってる奴がいるかも
しれないじゃん。ある作家の盗作騒ぎでファンのひとりが、「私には面白いんだからそれでいいんですっ!」
と問答無用のリアクションをしていたが、盗作されたファンはすっきりしないじゃん。

結局「意味ないじゃん」も「面白けれゃいいじゃん」もいいんだけど、奥で鳴ってるべースの音が「どうでも
いいじゃん、私に関係ないし」というフレーズの場合は、俺はどうでもよくない。うるさいオヤジ?そうかも
しれん。でもそういうセリフ、一見強気のようでもホントのところは逃げ腰に見えるぞ。

「友達いないだろ」


大きなお世話だ。BBSなどで時々見かけるのこの言葉、語尾に(冷笑)とか付いていそうな響きがある。
あるホームページの掲示板に、いきなり「変なサイト。お前ら絶対友達いないね(笑)」という書き込みが
されたことがある。割と趣味性の強いサイトで、確かにマイナーというか内向的な雰囲気ではあったが、
そんなのはこっちの勝手である。

書き込む奴に聞いてみたい。「友達おらんと、いかんとですか?」どうもこいつらの言う友達とは、自分が
仲間外れでないことを示す信号みたいなものに思える。そういう意味ではどっかの大統領と総理大臣も
立派な友達だ。で、もうひとつ聞きたいこと。友達とやらがいなくて一番恐いのはお前らじゃないのかい?

人間、自分が恐れるものや否定したい事柄を罵り言葉に使うような気がする。こいつらは、友達とやらが
いなくなって一人ぼっちで立つことが何より恐い。でも、よく周りを見てみんさい。自分が友達と思っている
のは、ただの知り合いじゃないのか?

ある番組でタレント同士(女性)が「○○さんって、女の友達いるんですか?」と聞いていた。彼女たちには
「男は騙せても同性の目は誤魔化せない」という前提があるようだ。まあ確かに裏表あったりするのはよく
ないけど、男友達ばかりの女性、というのもそれはそれで個性のひとつなんじゃないか?その一方、「私、
男友達の方が断然多いんです。」(≒私はさっぱりした人で他の女のようにウェットじゃない)という文脈での
自己規定を採用している女性もいる。そういう人って別に世の中で君だけじゃないと思うんだけど。

友達がいるのはいいことだ。でもいないこと自体がマイナスと評価されるのはおかしい。もし欲しくなければ
それも本人の自由だし、欲しいのにできない場合は、その理由と対応を具体的に考えていけばいいことだ。
と書いていくと、この物言いは「子どもの居ない貴方に…」に似ているようでもある。どうもこの言葉の裏には、
俺たち日本人の、ある種のいやーな一面を見る気がする。あ、こんなこと書くと友達失くしちゃうかな…


「させていただいている」


最近テレビのインタビュー等で耳にすることが多いフレーズだ。例えばある旅館経営者のコメント。
「私どもでは、海の見えるこの景観を売りにさせてただいています。」
要は「うちの部屋は眺めがいい」ということなのだが、それには誰かの許可が必要なのだろうか?普通に
「私ども(これで充分謙遜している)の旅館では、海の見えるこの景観が売りです。」
では何故いけないのだろうか。もしかしたら海の見えない他の旅館への配慮があるのかもしれないが、
客の立場からしてみると、そんなところで気を使われてホッとしている「海なし旅館」には魅力を感じない。
立地がいまいちなら料理で差をつけるとか商売として前向きにいかなければ、結局「よそのお客様を取ら
せていただいている」ことになってしまうのではないだろうか。

この仲間には「よろしかったでしょうか」というのもいる。レストランで、「ご注文はメキシカンハンバーグと
抹茶シェイクでよろしかったでしょうか」と聞かれて、「いや、やっぱサービス北海丼鮭の糟汁つきにしてくんない?」
と答えるのはありなのだろうか。「お釣り150円でよろしかったでしょうか」と聞かれて「今日金ないからさ、お釣り
500円ちょーだいよ」て言う客への対応はマニュアルに載っているのだろうか。

相変わらずジュー箱の隅つついてると思われるかもしれないが、要は「誰かのせいにするような物言いやめて
はっきり言わんかい!」ということに尽きる。まっとうな商売をしていれば必要以上にへりくだることはないし、
第一自信を持っていえないようなサービスを客にするんじゃない、ということだ。
「うちの旅館は、部屋から海が見えて最高です。是非来てください。」
「ご注文はハンバーグでしたね。ごゆっくりどうぞ。」
でいいじゃないか、と言わせていただいてよろしかったでしょうか?


「Ass第2ビル…さすが新大久保」

(Assホールとかじゃなくて良かった…)


「(笑)」

このネタに関してはちょっと神経質になってしまう。というのは知人、友人もよくメールで使っているからだ。ただ最初に
断っておくと、すべての(笑)に文句を言っているわけではない。メールやサイト上の表現は一歩間違えると相手を不快に
させたり誤解を生んだりする。その予防線として(笑)を散りばめていくのはありだと思う。むしろ意見や主張のはっきりした
人が言うべきこと、書きたいことを伝えながらも読む人への配慮として使っていくのは正しいことなのかもしれない。

しかしときどき楽しくない(笑)もある。
1.ささやかな突っ込み、場合によっては皮肉を込めながらも、「マジになるなよ」という勝手な牽制をこめたもの。
  例えば「まあ山本君も真面目だからね(笑)」とか。
2.聞いてもいない自分のことを書いておいて、お茶を濁すもの。カジュアルな言い逃げ。
  「まあ私ってそういうものに目がない人だし(笑)」とか。
3.意味のわからないもの。ここ、笑うとこか?という奴。
  「みなさんお待ちかね、営業2部の忘年会です(笑)」ほとんど「!」と混同している。

きちんと物を言わない不快感は、場合によって嫌なことをはっきり言われるよりも大きい場合がある。まあそれは人にも
よるのだろう。だいたいあのとき一言多かったばかりに人生こけまくってる人だしね、俺(笑)。


「かどうかなんですよ」

華道家なんですよ、ではなく相手に選択肢を投げかけることによって判断を回避する物言い。決定時における自己責任の
放棄という点では、「じゃないですか」と
同じ立ち位置にある。この言い方のずるいところは、選択肢を告げることで、後は
ボタンを押すあんたのせいだよ、というスタンスを取っていること。しかし選ぶべき答えには目星をつけていて、話を望ましい
方向に持っていこうとする傾向がある。あのなー、世の中物事決める時がいちばん難しいんだよ、と言っても多分彼らには
通じない。何故ならそんなことは承知の上でこの戦法を取っているからだ。だから必然的に議論は「かどうかスパイラル」に
巻き込まれてしまう。

A: 「問題はラーメンだけにするのか、ゆで卵もつけるかどうかなんですよ」
B: 「じゃあこの際つけちゃえば?」
A: 「いや、本当に卵つけた方がいいかどうかなんですよ」
結局のところAは卵が嫌いなのであった。この議論はBがそれを察して「じゃあ卵無しにしよう」と言うまで終わらないのである。


「感動」お断り

ワールドカップや各種イベントでの「感動をありがとう」というセリフ(誰が言ってるんだ、実のところ?)の寒々しさについては、
既に多くのコメントが飛び交っているのだけど、最近辟易しているのが自ら宣言しているタイプの「感動」だ。

「サービスを通じて、料理の感動を味わってください!」「皆さまに感動を与える、それが我々の目指すビジネスです」…だいたい
顧客に対して「与える」という物の言い方もかなり問題だけど、その鈍感さには反吐が出る、まったく。感動するかどうかは受け手が
決めることだ。そこでは送り手、作り手の才能や技量だけでなく、受け手の感じる能力も要素のひとつである。だから優れたものが必ずしも
感動を持って受け入れられるとは限らない。その不確かさ、当てにならない加減をわかっていて、なおかつ作るものに全力を注ぐことが
結果としての感動を呼ぶんじゃないのか。うざったいこと言わずに、まず真っ直ぐベストを尽くしてみろよ、と思えてならない。

しかし来る客来る客、「感動した!」と叫んでいるような店があったら変だと思いませんか?あんまり凄くて、、、一回行っちゃおうかな。


「○○力(りょく)」−もっとチカラ抜きませんか?


「声に出して読みたい日本語」の齋藤孝氏には、「質問力」「読書力」「自己プロデュース力」「企画書力」等の
著作がある。
(最後のものは文藝春秋に記載)最近阿久悠氏は「日記力」という本を出した。ウェブの検索サイトで
「人間力」と打ち込むと
文献、セミナーなどが続々出てくる。従来の日本語としては違和感のあるこういったフレーズが、
ふと気がつくと茶髪や男の
ピアス(俺もしてるけど)のように当たり前になってきた。

それぞれの著作をきちんと読んだわけではないが、ちょっと目を通した印象ではもっとも至極な内容だ。状況によっては役に
立つノウハウ本になるかもしれない…気になるのはその言葉のネオ・精神論的な響きだ。


例えば「企画書力」では、問題点を明確にして解決策の検証が客観的に進めることのできる、ある種のテンプレートの

使用を提案している。理にかなっている。しかしこれはアイデアやロジックを組み立てる上での合理的な方法論であり、

人間性の問題ではない。にもかかわらず「○○力」をつけることで人間のランクが上がるような言外の含みが、気になって

仕方がない。体育会のスポーツマンが、全員根性があって誠実な人間というわけではないのだ。

 

この流れは、欧米発のビジネスメソッドものが最近注目されていることと対照的だ。両者の指向性は実は近いのだが、

スポーツのトレーニング方法に根性論を持ち込んだような「日本的アレンジ」が成されているところが違う。「建設的に議論を

進めるための質問のあり方」や「アイデアを現実に結びつける発想の整理方法」なのであって、これを身に付けたところで

仕事の質や効率、うまくいけば給料は上がっても本質的な部分での人間が立派になるわけではない。(自信がつくことに

よる良い影響はあるかもしれないが)「人間力」の乱用は、物事を明解に、客観的に、具体的にする努力の放棄につながる

心配がつきまとう。「要は人間力の問題ですよ、ガッハッハッ。」つーのはお断りだ。不安な時代なのだろうか−こういうときって

中谷彰宏のような自己啓発系カリスマもどき(最近のプチ企業家もそういう傾向があるなぁ)が増殖しそうで鬱陶しい。

あー、俺に「無視力」をくれー!(ちなみに赤瀬川源平氏の「老人力」は好きです。)

 


「勝ち組、負け組」


「○○の勝者になる」と「○○の勝ち組になる」という言い方を比べてみると、後者には勝負で力を競いあった

感じがしないのは俺だけだろうか。勝者も敗者もそれぞれ共通点はあるだろうが、個人であれ企業や組織で

あれ基本的には独立した存在だ。そう括ってしまうことで、個人が個であることを停止して「赤信号、皆で渡れ

ば」的な集団主義のなかに埋もれていくように思えてならない。まだ銀行が業種として勢いがあった頃に電車で

乗り合わせた大学生の女性達が、「じゃあ銀行に決まった私たちって勝ち組じゃん!」とはしゃいでいた。さて、

今頃どうしているのか。やっぱ諸行無常じゃん。

 


「カリスマ」(それよりも天才を)


カリスマというものは、周囲の反応で決まる。孤高の天才や不遇の天才はいても、そういうカリスマはいない。

様々なジャンルで新しい道を開いてきたのはージャズにおけるチャーリー・パーカーのように−「天才」と呼ば

れる人種だ。彼らは時に賞賛と敬愛を集め、時に無理解と罵声を浴び、また時に無視され、忘れられた。しかし

優れた作品やテクノロジーに触れて味わう楽しみ、喜びは、彼らのおかげだ。そこでまた新しい才能が触発され

て、世界を広げ、深めていく。一方カリスマは内向きの求心力で人々を惹きつけはするけれど、その存在が小さく

なっていくのに連れて、世界は萎んでいく。

 

今の時代に必要なのは、物事を変えていく天才で、既存のシステムの中で人気を博すカリスマではない。それに今

の日本の「カリスマ」、あまりにも嘘臭い。その多くは特定のコミュニティの中でも上級者、人気者に過ぎないのに、

そう呼ばれることで、何か彼らが普遍的な高みにいるかのような錯覚を起こしている。「顧客の信頼の厚い、優秀な

販売員」が「カリスマ店員」になり、「高い合格率をあげている人気の予備校教員」が「カリスマ講師」になる。この

過程で何かがすりかえられている。ものを売ったり成績を上げていくためのスキルや工夫は忘れられ、ぽっと出のカ

リスマのキャラクターばかりに注目が集まる。

 

カリスマ寿司職人の握る寿司とか、カリスマ・アーキテクトの建てる家とか、カリスマ美容師のカットとか、カリ

スマ店員のおすすめコーディネイトとか、カリスマ運転者のタクシーとか、俺は要らない。自分のものは自分で選び、

決め、そしてその責任を負っていくなら、その辺のカリスマくんが人生に入ってくる余地はあまりないのだ。

 


「英語でBOW!/ある美容院の詩(うた)」

 

街で英語まじりの看板やポスターをいろいろ見かけるけれど、これが結構すごいことになっている。これも一種の

「変な日本語」ではないかということで、このコーナーに入れることにした。まず第一弾、先日郵便受けに入っていた

12×9p位のカラーチラシ、モデルの写真の真ん中に英語のコピー。

 

We Imagine with Professional Hands

Please wellcome to the salon at once

by XXXX Hair

 

文章の大文字小文字、句読点やwelcomeのつづり違いも、この際言いません。変であることは、はなから承知だけど

あえて意味を汲み取って訳すとこんな感じだろうか。

 

「私たちはプロの腕で考えます。どうぞサロンにいらしてください。」

 

ふーむ。しかしat onceを一度に、と訳しても変だしなぁ。byも違うし…と、そこで“imagine”は「想像」じゃ

なくて「創造」-createのつもりだったのでは、と妻の指摘。そうすると少しわかりやすい。プロの手で髪型を

創る、という文章自体には納得がいく…とすると、違ってたのは英語じゃなくて日本語かよ?

 

もうひとつ美容院もの。新聞の折込チラシに入っていたのだけど、こんな文章。

 

XXXXX(店名)which newly opened in Shibuya this autumn and became all 20 salons

at Tokyo and Kanagawa Prefecture. Communication was valued and the salon loved by you

of an area is aimed at. Its charm can be rediscovered whenever I have you come to the

salon… Aiming at such a salon, a staff all the persons concerned efforts is made.

We are surely waiting for coming to the salon from the heart at once.

 

えーっと、…間違いを指摘するというより、これはシュールリアリズムの詩であると考えた方が納得がいく。

 

多分英文自体はチラシの製作を請け負うデザイン会社などで作るのだろうけど、もしかしたら製作者はウェブ上の

翻訳サイトを使ったのではないだろうか。こういうのはエキサイト(http://www.excite.co.jp/world/)をはじめ

数々ある。無料で便利ではあるが、個人的に文の大意をつかむためには良いかもしれないが、人に見せる文章には

まず使えない。試しにどこかの翻訳サイトで訳してみると、まるで前衛詩のような不思議な日本語にくらくらするはず。

英語だけでなく他の言語も同じようことになっているはず。(以前フランス人とメキシコ人の友人にそれぞれ英語から

訳したものを送ったけど、かろうじて意味はわかるが無茶苦茶変なフランス語やスペイン語だったそうだ)翻訳サイト

には、気をつけましょう。で、もしこの訳がそうではなく誰か人の手によるものとすると…それも興味深いことですが。

 


「空気を読め」

 

ハードボイルドな気象協会員の台詞というわけではなさそうだ。ネットの掲示板でも時たま見かけるこのセリフ、

要は話の流れを読みとってそれに沿った発言や行いをしろ、ということらしい。「沿った」という意味は、必ずしも

自分の意見への賛成や追従を求めたりしているのではないということ。発言の内容よりも場の調和を崩すな、という

ことがその根底にあるようだ。でも何かおかしくないか?まるで「お前は短気だ」と言われて「てめぇ、俺のどこが

短気なんだ!」と怒る男(女でもいいけど)のようだ。「俺はこの場が平和に調和していないと嫌なんだよ、わかってる

のかテメェ!」みたいな感じで、こういう言い方は嫌だけど、何か日本的だなと思ってしまう。

 


「失礼だ!」

 

俺は時々こういう怒られ方をする。今に始まったことじゃないけど、「失礼だ」度数は高い方ではないだろうか。
でも失礼って何だろう。礼を失う、ということは、そもそも自分に対して相手は礼を尽くすべし、という発想が
かいま見える。一度映画館で割り込みを注意したら、それは回りを無視して(割り込みと思われることや、それが
人に与える不快感)を気にしていない、実はホントの先客で(大体並んだ仲間と口をきかず、後の俺たちに断りもないのが
失礼だとおもうが)注意した後誤解を謝ったが、その人物は「失礼だ!」とキャンキャン吠え続けるだけで、相手になら
なかった。でもね、状況考えろよ。大体すぐに「失礼だ」と吠える人間が一番失礼である気がするのは俺だけ?
...どーも失礼しました。

 


「なじまない」

 

「欧米のやり方は日本人にはなじまない」というセリフを聞くと、「俺はそうでもないなぁ…はっきりしていて
却っていいじゃないか」と思うことがあるのは私だけだろうか。もちろん、何でもひとつのやり方に押し込めようと
する頭の堅さや、すぐに「海外では…」を持ち出す本質無視のバカロジックには辟易ではあるが、一般的なその言葉の
使われ方に、私はなじめない。根底に、今あるものを守り、変化を拒む姿勢が見える。その動機がただ心情的なものだったら
理解もできる。「おばあちゃん、今更新しいものをと言われても嫌だよね、でも使ってみるとなかなかいいかもしれないよ。」と

誠意を持って説得もできようというものだ。しかし実際に見え隠れするのは、既得権にしがみつく一部の連中の影。文化の
保護のふりをして、自分の利益を守っている−こういうことって、ありませんか?

お年寄りって、意外と進取の気性に富んでいる。90前で亡くなった嫁さんの祖母は好奇心旺盛で、敬老の日にプレゼントした

豆カラの説明を読んで、電池交換等の基本操作をすぐマスターしてしまった。自分の好き嫌い、興味や実用性に素直な人だったと
思う。本当に大事なものを見極める知恵を持った人たちは、「なじむ、なじまない」という曖昧な基準で物を考えてはいないの
ではないだろうか。

 


「いかがなものか」

 

この言葉を聞いて浮かんでくるのは、どこかのお偉いさんが上のほ〜うからモノを言っているイメージだ。といっても

一般企業の社長とかではない。いまのビジネス界でこんなセリフを吐けるのは、どこかの新聞社社長位である。

 

ポイントは「呑気で傲慢」。このセリフを口にする人たち、自分では具体的な答や解決法、提案など持っていない。

何かに対して漠然とした不満、異議を持ってはいるのだが、「余は不愉快じゃ」の域を出ていない。知識はあるが、

現実的な知恵のないいわゆる“インテリ”(本物ではない)に多い心理的反応だ。そう言えば新聞の投書欄でも
見かけるなぁ、時々。

 

あるアメリカの技術者の言葉で、「問題をうまく述べられたら、半分は解決したようなものだ。」というのがある。

言えてるなぁ。不愉快じゃ、下々の者何とかせいというスタンスでは、これからは何も変わらない。うまくいってたのは、

あなた達の知らないプロジェクトXなスタッフ達が頑張っていたからだ。

 

問題意識を持つのは大事なことだ。何か違う、と思ったらその根っこのところを考えてみたほうがいい−こんなサイト

作ってる自分への戒めでもあるけれど。

 


「アイドルやってました」

 

新聞の社会面で読んだコメントだ。かつての夢としてのアイドル、そしてその現実、それからもう若くない

(ったって二十歳そこそこでしょ)自分の進路などについての、世相物の記事だった。

 

当たり前のことながら、アイドルとは選ばれるものではない。意思を持ってなるものなのだなぁと再認識。

(人は女に生まれるのではない、女になるのだ、みたいな話だが)トップアイドルたちのプロ意識は、その辺の

サラリーマンの比ではない。

 

一方、「我が社のアイドル」的存在は、選ばれて生まれるものなのだろう。そういった存在を欲しがる周りの思いが、

受け皿として誰かに結集してできる、集団的意識の産物だ。マドンナ的っつーか。この「アイドル欲しい」気分は

世間一般の中にも漂っていて、そのベクトルと志願者の資質、および売り出す側の企画が一致したとき、スターが生まれる。

スーパーアイドルの社会現象化、などと言うが、もともと彼、彼女たちは「現象」なのである。バーチャルアイドルが

成立しなかったのは、その発想が逆だったからだ。アイドル自体が、実はバーチャルなものなのだ。

 


「辛口批評」もしくは「歯に衣着せぬ」

 

上野(駅としては御徒町)のカレー店「デリー」のカシミールカレーは辛い。しかしその奥に、たまらない美味さが

ある。(同じ系列でも本店銀座よりこっちの方が上に思えるのは何故?)一方、「激辛何倍」系の、ただ唐辛子を奢った

だけの辛さには、アホ臭さ、もしくは腹立ちしか感じない。

 

辛口、というだけで評価されている物書き、いませんか。具体的な内容や独自の提案性は何もないのに、語調の厳しさを

以って悦に入っているメディア−週刊何々系のものが多いようだけど。「斬る」とか「申す」とか勇ましいこと言っているが、

読んでみると、ただの「けしからん、昔は云々」の域を出ていない。

 

現実の世の中で、現役の人間にとって一番勇気のいることは、問題を解決していくための明確な提言を、世に問うことだ。

答えははっきりでる。それが責任ある物言いではないのか。外面だけの本音ごっこは勘弁してほしい。

 

ときどきこんな人いるんだけど−「俺って、言いたいこと言う人だから。」「私って、思っていることすぐ言っちゃうけど、

誰も言いかえせないの。」多分、皆忙しくて相手してられないんだと思います。あ、俺ももう少し具体的に書くべきだった?

 


「私にご褒美」

 

きっと、色々なところで様々な人が取り上げたネタだろう。「ご褒美もらうほど、たいしたことしとるんかい!?」

「指輪やカバン買う言い訳ちゃうんか!?」「自分だけが苦労しとる思うとんかい!?」(何故関西弁?)

 

とは言っても、自分もサラリーマンとして、毎日が納得できることばかりでないのは知ってます。(だいたいそんな日

あった?)「やってらんねーよ!」(何故これは東京弁?)の小爆発が少しずつ溜まってくる。数年前につい車買ったのも

(ほとんど乗らないのに)、その心理に近いかもしれない。

 

でも気になるのは、「ホントは、こんなことしてる私じゃない」という、どこか勘違いしたプライド、もしくは甘え。

ご褒美は、誰かの庇護の下で生きる子供がもらうもの。俺は砂糖菓子より苦さと一緒に飲み干すビールの味に一票、だな。

一日々そうやってキリつけてくほうが性に合っているみたいだ。

 

もっとも、達成感の証としての「ご褒美」というのもあるのかもしれない。「がんばった人にはNCAA」(古いなー、誰か

覚えてます?)みたいなもの?そういうのはあっていいのかも、確かに。

 

しかし、しかし、ですよ、それを雑誌のタイトルに使われちゃいけない。「私にご褒美−秋の新作ジュエリー」とか。

言葉が、かなりデフレしてませんか?それは編集の人に言うべき?でも、読者がそのフレーズを見て笑うようになったら、

きっと姿を消すだろう。

 




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