☆気になるコトバたち2004


不断(えーっと語源的には「普段」ではなくてこっちだと思います)聞いていて、どこか引っかかる物言い、ありませんか?自分なりの、言葉の奥にある物の見方、考え方へのささやかな異議申し立てでもあります。


「新規参入」

大体からして参入っていうのはすべからく新規じゃないのか?その響き自体に「どこの馬の骨だか」的なムラ社会の空気を感じる。まあ要は「いちげんさん」はダメよ、ということなのか。例えば手を挙げたのがトヨタ自動車だったら、「あの奥田さん(会長)ちの。まあようこそ…」みたいな展開になっていたのではないだろうか。確かにその世界の伝統やしきたりは大切なものだと思うが、それは時代の試練にさらされて強くなるもので過保護に囲い込むものではないはずだ。「誰を」入れるか、入れないかというよりも「どこを見るか、どう判断するか」という視点が必要なのだと思う。

どこかの町で、転居してきた住人は持ち家なら10万、賃貸なら5万の町内会費を入居時におさめるという決まりが議論になっていた(金額に関する具体的な説明は無し。断った住人は共同ゴミ捨て場の使用を拒否される、という嫌がらせを受けた。)が、プライベートのスポーツクラブならともかく公共性の最たるものである住居に関してこんな取り決めは暴挙だ。球団経営は確かに私企業の行為かもしれないが、野球というスポーツは誰のものでもない。そんなことをごっちゃにして「球界のしきたり」もクソも(失礼!)もないもんだ。

ところで仙台をめぐる楽天とライブドアの闘いは結構泥仕合になりそうな予感がする。参入はウエルカムなんだけど、球団をめぐるビジネスゲームはほどほどにして欲しいものだ。選手会を支持したファンの気持ちはネット上だけじゃ読みきれないかもしれないよ。


「あなたみたいな人がいるから」

実際にこういう言い方をされたことは今まで1、2回しかないが、そのどちらもかなり的外れな話だったような記憶がある。一度住んでいるマンションの集まりで各階住人代表でつくる管理組合の予算の使い方の話になったとき、そのお金でジュースを買って飲むことの是非が議題になった。(その時点でかなりヤバイ気もしたのだが…)そんな話題があーでもないこーでもないと延々続くので俺もつい、缶ジュースの10本や20本構わないじゃないか、当人たちも機械的に割り当てられてやっているわけで、喉が乾いたらそれくらいノープロブレムだろう…みたいなことをちょっと発言したら、言われちゃったんですね、これが。

委員会(こちらも住人)のひとりが「何てこと言うんですか!あなたみたいな人がいるから、いい加減な予算が…」みたいなリアクションを始めて、一体全体何を怒られているのかさっぱりわからない。その後の当委員の発言もまったく論理が読めない。あとあと考えてみると、もしかしたら「まあ、いいじゃないですか」みたいな態度が許しがたいということかなと思ったりもしたが、それにしてても不思議なやり取りだった。彼らは暑い最中に集って外壁修理の見積もりとかやってるんだから、それ位許されていいはずだ。俺だったらビールと寿司つけちゃうけどな。(そう言ったときの反応は興味深くはあるけれど、まあローンもふんだんに残っていることだし)

思うのだけど、「あなたみたいな人」とか「君みたいな人間」系の発言って、お互いあまり知らない場合のに飛び出しがちな気がする。まあ旧知の仲でのこういう言い方ってのもあるのだろうが、それは会話の中にほどよくブレンドされていて、そこだけ突出するものでもないはずだ。相手をよく知らない、と言うことは勝手な思い込みによる「君も私が常々否定している連中の一味だ」宣言みたいなもので、そう言われても腹が立つというよりも、「?」という感じの方が強いだろう。…きっと正義感のある良い人なのだろう、彼らや彼女たちは。でもその正義の前に理解力とか想像力とか世の中いろんな見方、言い方があるという常識があるともっとナイスなんですけど。

話は変わるけど、「海外旅行の智恵」みたいな記事で「アメリカで、夜黒人たちに取り囲まれたとき、大声で日本語を怒鳴ったら去っていった」という話があった。街が暗くなってから年配の旅行者(そのコメントを寄せた人)を取り囲むのは多分ゴスペルを歌ってくれるためではないかもしれないが、そこで人種を記述する必要があるのだろうか。その辺は編集者の神経を疑う。「人を見たら泥棒と思え」みたいな発想が、こういう言い方や「あなたみたいな」とかいう物言いに顔を出しているようでそれが楽しくない。まずは「人を見たら、人と思え」というのが出発点だと思うけどね、俺は。


「まさかの」

昔から気になっていたのが高校野球の地元記事とかオリンピックの全国紙とか、「うまくいけば上位入賞も可能だろう」とか「優勝の可能性も夢ではない」といかいう書き方。そりゃ応援したい気持ちはよくよくわかる。身近な人間への贔屓は人として当たり前の感情だし俺も結構持っている。日の丸見てうっかりウルウルしちゃったりすることもあるし。でも少しだけそういう書き方に、「ともかく楽しませて、いい気分にしてちょうだいよ!」みたいな無邪気な無責任さをそこに感じてしまうのだ。生身の人間が盛り上がることには何の異存もない。選手だって(人によるかもしれないけれど)元気がでるだろう。でもメディアが一緒になってキャーってなっているのにはしっくりこないものを感じる。

優勝候補の初戦敗退−そういうこともあるだろう、勝負事だし。もちろん俺だって谷亮子が初戦で負けたら口が開いたっきりになっちゃいそうだけど、なんかしゃあしゃあと型通りに言葉を嵌めている感じに、報道の姿勢としてどこか違和感を感じるのだ。無意識の怠慢って気もするし、大震災や事故がおっこってポカンとしていたどこかの総理大臣を思いだしてしまう。しかし谷選手にヤワラちゃんというニックネームの由来を聞いていた記者がいたが、かなり前から使われているにしてもそれくらい調べておくべきじゃないか。本人に聞くかよ、という気がする。…なんてことを書いていたら柔道の井上康生がメダルにも届かず敗退!確かに「まさか」だが、そこを冷静に伝えるか、またはぐっと踏み込んで書いていくかがプロの仕事ってもんじゃないだろうか。

「信念」

新年はめでたいが、信念は難しい。政治家などが「信念に基づいて行動した、発言した」と言うことで議論を打ち切って逃げてしまう展開を目にすると、えらく情けない気分になる。こういう場合の「信念を持つ」は「聞く耳持たん」とほぼ同義語だ。しかし異論、抗議を述べる相手方にもやはり信念があるわけで、「大事なのはボクの信念、君のはどうでもいいもんね」という姿勢はただの言い逃げでしかない。アメリカで中絶手術を行う医師を撃った人間たちは、信念に基づいて人を殺したのだ。信念は大切だけど間違っている場合もある、とういうことを俺たちは知っておくべきだ。

「ありえない」

若い男が女性に言われていちばんイタイ言葉は当面これじゃないだろうか。「山田君とつきあう?ありえなぁーい!」と言われた日には「ダサいけどいい奴」「背が低くてもスポーツ万能」等々のリカバーショットが全く効かなくなる、ウルトラマンに出てくる宇宙恐竜ゼットンのような存在だ…と言っても何のこっちゃわからないから説明すると、あらゆる武器が通じなくなるということです。このイタさの奥に感じるのは、価値の「門前払い」。それもちゃんとした検討の結果否定されるのではなく、ほんの表面的な思い込みで門を閉じてしまう。“判断”というより“差別”に近いものを感じるのだ。それよりむしろ、「それもありだよな」という目線を持つことから物事は始まるのだと思う。(このネタは、リンクさせていただいている絲山さんからサジェスチョンを頂きました)


「DNA」

この言葉はちょっと響きがカッコよかったりするだけに、使い方には要注意だ。「日本人のDNA」なんて、おいおいそう簡単にくくるなよ、と思う。寿司や刺身の嫌いな奴もいるんだし(そういうことじゃないか…)。専門的なことはよくわからんが、本来遺伝子学というのは個体の真理を追求していくベクトルにあるのではないだろうか。それが反転されて、新たな全体主義のための用語化していくことには疑問を感じる。もっとも小ぶりなところで、「丸の内線荻窪駅職員のDNA」とか「緑ヶ丘幼稚園児童のDNA」とかいう話になったら微笑ましくもあるのだが。


「○○に国境はない」

例えば「スポーツに国境はない」。この言葉自体はスポーツ好きな人の無邪気な心情から出たのだろう、たぶん。でも、と言うことは、「スポーツなんか興味ないわい!」という人間に対しては見えない境界線が存在するということなのだろうか。揚げ足を取るつもりはないが、その言い方のおめでたさがちょっと不安だ。下手すると、誰かにいいように利用されかねないような。それよりも、「国境は確かにある。でもそれがどうした」という見方を俺はしたい。人は皆違う、という前提に立ちながら、なおかつ共有できるものを探していくことが理に叶っているように思える。ちょっと「バカの壁」みたいだけど、壁があるならドアつけりゃいいじゃん、というのが俺のスタンス。


「全力を尽くす」

現首相の小泉氏はこういう物言いが多い。イラク人質事件への対応に始まったことではなく、何か問題があるたびに氏は全力を尽くしていたようだ。で、その全力って何よ?と考えるといまいちよくわからないのだが。

この言い方が機能するのは、優先順位などの具体的な指標があるときだ。例えば教育、経済、外交では、私は外交に全力を尽くすという方針であったり、よし子と亜美とメアリーだったら俺は亜美に全力を尽くしてアタックするという意志であったり。亜美ちゃんの方がよし子さんやメアリーより素敵かどうかは別として、少なくともこの男のビジョンは明確になるはずだ。そういう前提なしでの「全力」は、どこに向かうのか一向に見えてこない。第一政治家に限らず、責任ある立場にいる人間が事にあたり一所懸命やるというのは当たり前じゃないのか。全力を尽くすことは尊い。だからこそこの言葉がちょっと不憫だ。


「自己責任」

イラクの人質事件を機にちょっと時の言葉みたいになっている。自分のことは自分で責任をとる、そりゃ結構。でも元々責任とは自分でとるものではないのか。言葉としてどこか背骨が曲がっている気がするのだ。

例えば「社員の過ちは会社の責任」という言い方。そこには社員という組織の最小単位と人間個人としての存在がごっちゃになっている感がある。ホントは「会社の仕事をしている人間の過ちは、その会社の責任」なんじゃないだろうか。

何事も責任は取るべきだ、やっぱし。でもここのところ自己責任という言葉に接すると「俺は関係ない。勝手になんとかしろ」という裏の声が聞こえてくるようで、うすら寒い。それよりも「責任者出てこーい!」「出てきたらどないすんのん」の方が楽しいですよね(つって何人知ってるだろう、最近…)


「豊かな人間性」

いい音楽を聞いたり、素敵な服を着たり、美しい絵を見たり、美味しいものを食べたりすると人間性が豊かになるのだそうだ。するってーと何かい?通販やネットで全国の珍味やワインを取り寄せて密室で食っていると、自然に魅力的な人間になるって寸法かい?音楽学校や美大の生徒は皆いい人?人間性っていうのも随分曖昧な概念だけど、それは人と触れ合うことでしか育っていかないものじゃないのかい?音楽や料理で育つのは音楽的能力や味覚であって人間性とやらじゃない。ただその過程に素晴らしく情熱的なミュージシャンとか人柄の深い料理人とかいればそれは別。そこでは主題とは別に「人として」何かを学んでいることだろう。誰だってうまいもの食ったり素敵な表現に触れたりしてみたい。でもそこに人間性とか持ち込まないでくれよ。世の中には贅沢の言い訳を欲しがる人たちもいるみたいだけど、いいじゃん、そうしたいから、つーだけで。それであれこれ言われるようだったら、それは貴方かもしくは相手の人間性の問題ではないのでしょうか。それからもうひとつ、人間性って言葉、それほど大事なもんかね。それを頻繁に口にする人たちの人間性に、俺はちょっと疑問を持っていたりするのだ。


「脳力」

出版界では「脳」はいま旬なテーマなのかもしれない。「バカの壁」の養老氏をはじめ精神科医とかコンサルタントとか各界の「エキスパート」たちの自論が書店の棚にも溢れている。確かに脳の話は面白い。その働きや仕組みを理解すれば、下手な伝承技術や精神論より仕事や勉強の役にも立つのだろう。でもどこか匂うぞ。

右脳、左脳はもちろん前頭葉や海馬などの名称も、言葉として違和感がなくなってきた。皆当たり前のように「右脳を活性化すれば斬新なアイデアが生まれる」とか話しているが、そんな単純のものだろうか。不思議なのは、「斬新なアイデア」とかを謳う書籍全般のデザインや構成、文章の工夫のなさや陳腐さだ。紺のスーツに白い靴下をはいてお洒落について講釈たれる奴のようでもある。

これらの著述の多くは、「脳力」を鍛えたり養ったりした結果に対して曖昧な書き方しかしていない。ある本の編集者は「発想力、創造力、ひらめきなど日常生活のあらゆる場面で役立つような、研ぎ澄まされた感覚をやしなうための本です」と語っているが、そんなことがたった一冊の本でできるぐらいだったらもう少しこの国は良くなっているのではないだろうか。だんだん胡散臭く思えてきた。

いくら脳についての研究が進んできたとしても、明かではない部分も多いはずだ。純粋に科学に基づいているというより、その美味しいところをネタとして都合よく使われちゃっている気がしてならない。前述の養老氏は真っ当な学者だと思っているが―「バカの壁」はそれほど評価しないけどーその他の自己開発系の面々の主張には「鰯の頭も信心」の科学テイスト版としか思えないようなのもある。かにかまぼこ的ノウハウつーか。ふと気づくと中谷彰宏とかも右脳本を出している。編集者曰く、「中谷さんだったら右脳開発をどう考えるのか?ということろから生まれた本」だそうだが、それって医学者でも心理学の研究者でもない人間に勝手に「私は脳についてこう考える」と言わせているだけではないか。出版物の多くは、いままで繰り返し生産されてきた自己啓発本、人生ノウハウ本に「脳」という目新しくもっともらしい味付けをしただけの「焼き直し」に思えて仕方がない。

大体これを身につければ全てが上手くいく、などというものはない。もうひとつ、成功者の手法が同じく他者にも有効とは限らない。それに後づけで整理されたものはノウハウの剥製みたいなもので、往々にしていちばん肝心な状況のリアリティとかに欠けている。「俺の脳の使い方は間違っているのだろうか」とか言ってるより、語学と同じで基本の単語と文法をサクッとやったら後は実践を重ねていくのがいちばんじゃないかな。

しかし脳の使い方について一所懸命に考えているのも、また俺たちの脳なんだよな。一度彼らの声を聞いてみたいものだす。


「ぶっちゃけ」

と言う言葉が結構使われるのは、実は不断ぶっちゃけで話すことができないからだと思う。普通の話がぶっちゃけであればわざわざ前置きをする意味はない。昔星新一が「英語に天邪鬼という言葉がないのは、人と意見が違うのは当たり前という意識があるから」というようなことを書いていて妙に納得した覚えがある。(俺の辞書には"contrary person"とかちょっと頑張った訳が載っている)「ちょっと今からキツイこと言うけど…」という前振りとしてはありだとしても、こういう言葉の登場回数は少ない方が健康なのかもしれない。でもまだまだこの社会では便利ではある。ぶっちゃけ、俺も結構使ってます。


「カツ丼をぺろりとたいらげ」

…なんてセリフ最近聞いたことがないが、この言葉自体を取りあげるわけではない。3月10日の朝日新聞朝刊の「ゼロヨン時評」で映画監督の森達也氏が、オウム真理教の麻原被告についてコメントしている。彼の見解では麻原は重度の統合失語症で、すでに「廃人」同様だ。そんな被告に罪を問い事件の真実を求めることに、氏は疑問を投げかけている。森監督はドキュメンタリー映画「A」「A2」でオウム真理教をとりあげた監督で、一般世間の視点に一石を投じた。俺はその映画を見ていないのでこういう表面的な記述しかできないが、メディアのステレオタイプな報道に突っ込みを入れ続ける姿勢は注目だ。以前俺は、「ボウリング・フォー・コロンバイン」に対する氏のコメントに「わかってないよ」と反論したことがあるが、自分の目で見て頭で考えてものを言う氏の姿勢はリスペクトしている。

で、冒頭の話。昔々、事件を起こした犯人が取調べで出されたカツ丼を全部食べたという「反省の色が見えない」というレベルの低い暗喩だ。森氏は今回の裁判報道での「現実から目を背け」「グフグフとバカにしたような薄ら笑い」「謝罪の言葉すらない」といったお決まりの文句の持つ鈍感さに、ヤバイぞそれ、と言っているのだ。経過を間近に見ている人間が、型にはまったものの見方で事件を片付けてしまう。そこから教訓や智恵を得ることはあまり期待できそうにない。厳しい姿勢で臨むことと、真実を明らかにするための努力をすること。その両立のために検察にもっと工夫はなかったのだろうか。精神鑑定などを行うのは被告のためでなく、事件に関する全ての人のためであると思う。誰もそこに目を向けなかったのか。王様は裸だ、と思わなかったのだろうか。


「スローライフ」

言葉としては下火になりつつあるようで、あえて取り上げるほどではないかとも思うのだが、下火になるということ自体が何だか気になる。メディアによる「ライフタイル提案」の一アイテムとして消費されてしまったのかもしれないが、そもそもスローライフとは物事の過程を楽しむことではなかったのか。結果は似ていても、そこに至る過程にひとりひとりの個性やら味やらがある、そういう視点を持つことに意味があったのではないだろうか。もちろん俺の捕らえ方は、一面的かもしれない。環境に気を配った農業の実践など、生活に根付いた活動を続けている人たちも多い。しかし「gooスローライフのコンセプト」みたいなものを読むと、その行く先が少しずれてきているように感じるのだ。スローライフ、とはその言葉が当たり前すぎて消滅しそうになったとき本当に定着しているのかもしれない。食い物屋の「こだわり」連呼とかと同じで。えーと、このコーナーも書くこと自体を楽しむことから始めているのでスローライフ的っちゃあそうなんだけど、更新ちょっとスローすぎます?


「青年実業家」

ちょっと前回とネタが被ってるかもしれない。どちらかというと死語の世界に近い気もする。でも「女優の○○、青年実業家と交際」とか聞くと、なんかむず痒くないですか。だいたい○○って「女優」かよ、つーのもあるのだけど、青年実業家というのは昔から不思議な言葉だ。もちろん大樹の陰を良しとせず、自らビジネスを起こして頑張っている分には文句はないし尊敬できる人間も何人か知っている。しかし引っかかる。「青年」という言い方も一員だろうか。この青年は「青二才」のブルーですね。(長嶋さんかよ…)実業っていうのも微妙に慇懃だ。俺だったら商売人って言われる方が好きだな。でもそういった「交際相手の青年実業家」、仕事の内容を聞いているとどちらかと言えば「青年虚業家」って感じが多いんですけど。


「ビジネスマン」

2月12日の朝日新聞(東京版)文化総合欄の「『文士』はどこへ消えた」という<60億の肖像〜田沼武能写真展>を取り上げた記事の中で、田沼氏自身の(バブル期以降の文学者の顔は)「全員じゃないけれど、ビジネスマンみたい」というコメントが載せられている。前後の文脈からするとビジネスマンは、「自分はこれを追いかける、そういう生き方が出たツラ構えです」というかつての文士たちとは違う人種だと読んでもあながち間違いではないだろう。

しかし俺の周りには、そういうツラ構えのビジネスマンがいないわけじゃない。全員じゃないけれど。これは新聞記事の引用コメントであり、田沼氏に一方的に疑問を呈するつもりもないのだが、ちょっと浅すぎないか、その見識。以前ある評論家が「サラリーマンという存在を軽視した書籍を出している物書きは、その本の出版のために働いている無数のサラリーマンたちのことをどう思っているのか」という発言をしたことが、俺はずっと印象に残っている。

職種や業種だけでツラ構えや生き方まで決め付けるお手軽な精神論は、まだしぶとく残っている。山本夏彦の「株屋は好かん」から始まって、広告代理店なんかも結構やられてます。適当なことをホイホイ言ってるだけの人種だと思っている文化人様が意外に多くてびっくりすることがある。もちろん違法な行為、あまりに社会通念に反した業態は考えものだが、業種自身に大した差なんてない。いかに仕事を進めていくかが問題なんじゃないか。

ちょっと記事の話に帰ると、今の作家と昔の「文士」の違いを語りたかったら他のジャンル(スポーツとかアートとか)とも比べてみたらどうだろう。それこそカメラの性能が悪かった大昔、被写体はかな氏のかなりの時間じっとしていなくてはいけなかったので、いきおい渋くて締まった顔になったなんて話もあるが、物事もう少し広く見ると納得いけるかも。この記事を書いた近藤康太郎氏の選ぶ題材や、その文章の多少青臭さを含んだ熱気は個人的には気になっている。頼むよ!ところで同じ日の同紙スポーツ欄の連載特集「コーチの流儀」では、女子バレーボールの全日本チーム監督柳本氏のことを評して「ビジネスマンとしてもきっと成功する。論理だった指導ぶりはふと、そう思わせる」。こう言われるとビジネスマンも悪くないよね。


「プロに聞く」

どんなジャンルであっても、プロと呼ばれる人間には一目置いてしまう。表面的な技術ではなく、その奥に持っているソフトな能力に触れたときには感慨を受ける。ある通訳の人に仕事を頼んだときに、彼女の英語はもちろん日本語も含めたコミュニケーション能力の鋭さ、的確さには舌を巻いた。だって俺が日本語で冗談を言うと、しばらくして相手が皆、かなり自然に笑ってるんですよ。

誰かにその人の専門分野について聞くのはいいことだと思う。やっぱプロだし。しかしテレビのバラエティや報道番組などを見ていると、「プロにお聞きします」と言いながら実は畑違いのことを訪ねている場合を往々にして目にするのだ。青色発光ダイオードの権利巡って話題になった中村教授の件で、技術関係の評論家が「やはり日本も雇用者と個人の契約をもっと一対一で行わなくてはいけないのではないでしょうか」というコメントしていたが、あんた雇用問題の専門家じゃないでしょう。教授のような人間ばかりじゃないんですよ、お父さんたちは。そうやって労働格差をぐんぐん広げていったアメリカの話とか、全体を通して深く見ている人間が言うべきことだよ、とかね。

家庭内暴力について作家がコメントしたり、広い意味での国際化の問題を企業の経営者に尋ねたりすることにどんな意味があるのだろう。もちろん自立した一個人としての意見は聞くべき価値もあるだろう。でもそれは「プロに聞く」でも「専門家の意見」でもない。生きていくことに関しては、全ての人間が素人だ。安易に誰かのコメントを聞いて済ませてしまうことが危険なのだと思う。わかった気になるヤバさ、つーか。で、こういう話の是非は誰に聞けばいいんでしょうか?


「不良オヤジ」

不良はカッコいい。不良はおしゃれだ。不良はオンナにもてる。やっぱこれからの大人は不良だぜ。上質のスーツをさりげなく着くずし、作法を心得ながらもちょっとお行儀悪く極上のイタリアンをいただき、カラダはジムでしっかり鍛えてある。でも社会の一員だから信号も守るし、人には迷惑をかけないのさ。いいね、そういうの。なんか額縁に入った写真みたいで。そういえば昔、「少年の心を持った大人」とかいうのもいたな。あれ、君そんとき居なかったっけ?もしかして芸風変えたの?「大人の」とか前置きが必要だったら最初から不良なんて名のらなきゃいいじゃん。ラリー・クラークのおっさん見てごらんよ。今でも近づくと、空気がヒリヒリするよ。



→HOME