☆みたきいたよんだ
ラスト・サムライ 【The Last Samurai】
Director: Edward Zwick / Cinematographer: John Toll
今年最後(多分)の映画がラスト・サムライというのも何だけど、なんせ長いのでうまく時間が取れなかったのだ。ようやく見られたという感じ。周囲の評判は意外にも(?)よく期待も高まる。実際「力作」と言ってもいいだろう。映像の美しさや合戦シーンの迫力は高い水準にある。ストーリーは途中ちょっとダレ気味になるが、後半部分に差し掛かると流れもよくなって一気にいける。しかし…相性なのだろうか、やっぱりトム・クルーズがだめなのだ、俺の場合。すべての表情、芝居がいつもと同じに見えて仕方がない。罪のないアメリカ先住民に対して、命令とはいえ意にそぐわない殺戮の痛手を持つ元・勇士のふて腐れっぷり、そして敵でありサムライたちと出会い変わっていく様―どうしても毎度お馴染みトム兄さん、に見えてしまうのだ。でも殺陣は見事!並々ならぬ意気込みは充分感じることができた。
イン・ディス・ワールド 【In This World】
Director: Michael Winterbottom / Cinematographer: Marcel Zyskind
前作「24 Hour Party People」に続くマイケル・ウインターボトム作品。アフガニスタンの難民キャンプを脱出して、ロンドンに新天地を求め陸路密航(言語矛盾?)を計る少年ジャマールの物語。政治的な目線で見ようと思えば思いっきりそういう映画ではあるが(難民問題のシンポジウムとかでも上映されてしまうかもしれない)、俺には「旅」の映画に見えた。こういう言い方をすると誤解を招くかもしれないが、だって映画でしょ。主演の少年は英国に難民申請をしたものの認められず18の誕生日には国を出なくてはいくなったなど、印象として「事実上ドキュメント」的な側面を多々持つ作品ではあるが、これはこれで人生の旅のひとつなのだ。アフガニスタンの人々のことは、別にきちんと考えよう。ほんとに。でも映画は映画としての魅力や駄目さ加減を見てあげないと可哀想だ(と勝手に思っている)。荒っぽくて素朴な旅の記録は、少年ジャマールのリアルな好演(つーかゼロ演技?)とマッチしてざらりと心に届く。ただ前作同様、なんか振り切れなさが残るのだ、この人の場合。ある種のドキュメント・ファンタジー(勝手に造語しました)の中途半端さ、というか。でもどこか気になる波長を持っているのも事実。この際中途半端を極めて、マイケル節を確立してはどうだろうか。次回作(Code46)は、日本ではいつ見られるのだろう。
ファインディング ニモ 【Finding Nemo】
Director: Andrew Stanton / Cinematographer: Jeremy Lasky,
Shalon Calahan
阿修羅のごとく
Director: 森田芳光 / Cinematographer: 北信康
向田邦子の原作で昭和54年NHKでドラマ化された作品である。残念ながらテレビの方は見た記憶がない。もう充分すぎるほど物心はついていたのだけど。
この映画を見に行ったのは仕事の関係でちょっと出演者たちを見ておきたかったからで、それほど個人的な興味があったわけではなかった。しかしこういう伝統的な(?)日本映画を見ることのあまりない自分にとってはある種の期待感もあった。その期待感は劇場に入って客層を見たときにさらに高まる。年配者が多い!(俺だってそう若いわけじゃないけど)「アバウト・シュミット」を見たときも年配の人は多かったが、そのときとは少々雰囲気が違う。
比較的カップルが多くて、どこか落ち着いている。同年代が多いせいかどうかわからないがリラックスした様子だ。船橋ヘルスセンター(お年寄りの同窓会のような光景が展開しているのだ)を訪れたようなマイナスイオンを感じて、何故かくつろいだ気分になってしまった。
後ろの席で、年配のご婦人ふたり連れが話をしている。他愛のない世間話、というところだが妙に可笑しくて聞いてしまった。ひとりの方がどこかの空港で、搭乗直前に売店で素敵な傘を見つけた。しかし荷物が多くてこれから飛行機に乗ることを考えるとあきらめざるを得ない。でもいい傘だったのよ、と未練たらたらだが相手も面白がって聞いていて間合いのいいキャッチボールになっている。つき合いが長いのかもしれない。不断はそういう周囲の話し声は好きではないのだが、今回は開幕前のショートコント(別にオチがあるわけではないのだけど)のようで悪くなかった。
で、肝心の映画の方だが、ちょっとコメントしにくい。丁寧であるがテレビドラマ的お約束描写が延々続く感じで、2時間15分が長かった。役者がきっちりと仕事をして、用意された箱にすっぽり収まったようなまとまりかただ。みかんを食べながらでも見ていられる安定感があるが、それは退屈と紙一重ではある。深田恭子の芝居にはちょっと辛いところがあって、セリフの間合いの悪さはどうにかならならなかったのだろうか。一方小林薫は上手い。姉妹たちがいろいろしゃべっている脇で黙って煙草を吸っている芝居がもの凄く存在感があるというか、場のリアリティを高めていた。
全体としては、特に映画としての興奮や新しさを感じるものではなかった。人に薦めることもないかもしれない。しかし「平凡の有り難み」みたいなものがどこか印象に残っていて、こういう映画もありなのだと感じる。「阿修羅」はパッケージとしてのレベルはかなり高い。原作、脚本、役者等が揃ったからというのもあるだろう。こういう作品が作り続けられていけば、また映画館の風景も変わってくるのではないだろうか―というか今の映画館は街の機能として存在していて風景として立っていないのではという気がする。子供の頃に―それも大袈裟な例えかもしれないけど―劇場は、大事な街の一部だった。
惜しむらくは、題名の阿修羅につながっていく「女の深さ」みたいなテーマがもうひとつ軽かったこと。上手に仕上げられていてどこか破綻がないというか。後ろ席のふたり連れは途中でいなくなったが(前の回に遅れてきて、逃した前半だけを見ていたようだ)、あのご婦人たちの方が腹の中に阿修羅を隠していたかもしれない。
アイデンティティ【Identity】
Director: James Mangold/ Cinematographer: Phedon Papamichael
深夜に豪雨で隔離されて、陸の孤島状態になったアメリカ田舎のモーテルで起こる謎の連続殺人事件。そこにあったはずの死体が姿を消すとともに、ある裁判をめぐるサイドストーリーが織りなす「真相は如何に?」なミステリー。こういう映画をネタばれなしで語るのはなかなか難しい。そこでちょっと違う角度から語ってみようと思う。俺は「ユージュアル・サスペクツ」を楽しんでみた口だ。しかしあの映画を、意表をついたエンディングの優れたミステリーという風には評価しない。どちらかと言えば「そのオチ、ズルイんでねーの」と思っているし、納得できない部分も多い。にもかかわらずこの作品が嫌いじゃないのは、全体に流れる緊迫感のせいだと思う。推理小だって結末に至る展開に小説としての面白さがなければ、それはクイズでしかない。
「アイデンティティ」も、その結末が映画の評価を決めるポイントではない。俺に言わせれば最後にひねりの利いたデザートが出てきたコース料理のような感じで、そのユニークさは素晴らしいがそれで料理の点が決まるというものではないのだ。そう、問題は前菜からメインへとつながっていく展開。そういう意味ではまだ秀作の域を越えきっていないかもしれない。モーテルの客たちのパニック状態の演出は、割と普通で収まりがいい。きっちり書かれた設計図をジョン・キューザック、レイ・リオッタ等の達者な面々がうまく仕上げたという感想も持った。でも75点はいけてます。監督のポテンシャルは何となく感じられる。他の作品もちょっと見て見たい。
マトリックス・レボリューションズ【The Matrix Revolutions】
Director: Andy & Larry Wachowski / Cinematographer: Bill Pope
前作「リローデッド」を「有料の予告編」と言ってしまってなかば義務感で見に行った最終作だが、映画としては結構楽しめた。考えてみると、今回はザイオンの人々の役割がより大きくなってきたことも関係しているかもしれない。「評議会」の人々の服装が古代ローマな感じなのは妙だが、紋切り型的であるとは言え司令部と最前線の人間の確執などが描かれた結果、観客は自分個人のものだけでなく「苦境下にあるザイオンから見たネオ」という視点を獲得したのではないだろうか。(J
リーグ・プレイヤーがワールドカップで国の代表になったときに感じる応援側の気分の差みたいなものか。よくわからないけど)この新しい視点が話の幅を広げて、映画のエンターテイメント的側面を膨らませたように感じる。
しかしその楽しさはある意味でマトリックスのスターウォーズ化であり、第一作に何か新しいものの誕生を目撃して興奮を覚えたファンにとっては諸手を揚げて歓迎できるものではない。第一作のラスト、公衆電話を使ってのネオの宣戦布告シーンで感じたあのゾクゾクした期待感は今回どこへも行けなかった。けれどもこの映画を期待外れと斬って捨てる気はない。マトリックスというデカいネタに挑んだウォシャウスキー兄弟の戦い、今回は善戦程度であったがいろいろと考えるテーマをくれたという点では一定の評価をしていいと思っている。ホントは「マトリックス・最後の闘い」とか「エージェント・スミスの愛」「ザイオン漫遊記」とか徹底的にマトリックス・ワールドを追及して欲しいし、実際それくらいしてやっと解明できるものなのだと思う。やらないと思うけど。
この映画に関して、リンクを貼らせてもらっているデッカード氏のサイトでのシュミーズの次郎長氏のコメント、「マトリックスはマクルーハンの影響を受けている」に強い興味を惹かれた。自分がニューヨーク大学でやったメディア学のルーツもこのマクルハーンおじさん(全面的に支持するわけではないけど)だしね。という風に脳みそのあまり実用的でない部分をいろいろと刺激してくれる作品ではある。…しばらくしてDVDで見るのが楽しみでもあり恐くもあるような。(勘違いな思い込みだったりね)
座頭市
Director: 北野武 / Cinematographer: 柳島克己
ベネチア映画祭でき監督賞を受賞に対して「日本の誇り」的なコメントが一部で見られたが、それはズレズレな認識では
ないだろうか。何かを誇ることができるのは、程度の差はあれそのことに心を砕き、また関った人間だけの特権だ。ずっと
応援し続けてきた阪神ファンにはリーグ優勝を誇る権利がある。一方金で集めた選手の働きで来期優勝したとしても、巨人
ファンはそれを誇りにできるのだろうか。
映画そのものは俺にはちょっと?だった。殺陣のシーンはなかなかシャープだし、ビートたけし(役者としてはこの名でクレ
ジットされている)の雰囲気も納得感がある。大楠道代や柄本明は達者だし、浅野忠信もなかなかいい。例のタップダンスは
唐突な印象だ。常識を外すのはいいとして、この映画の根底に流れるリズムがそれと合っていない気がする。もっと無駄を
削ぎ落としてコンパクトにまとめれば、キリッと締まったエンターテイメントになったのに。素材としてのポテンシャルは今の
日本映画の中では高いレベルにある。やはり編集は監督とは別の人間がよかったのではないだろうか。
インファナル・アフェア 【Wu jian dao / Infernal Affairs】
Director: Wai Keung Lau, SIu FAi Mak / Cinematographer: YUi-Fai La, Wai
Keung Laui
今風に(という言い方自体が今風でない気がするけど)いえば、ある意味「イケメン映画」なのだろうか。イケメン探しは
ジャンルを超えて凄いようで、仮面ライダーの役者からメキシカン・プロレスのレスラーまで留まることをしらない。これを
節操ないと取る向きもあるのかもしれないが、考えてみると皆割とマイナーなジャンルの住人ではあるが実力派である。
直感の正しさというか、その辺があなどれないところなのだ。
で、このインファナル・アフェア、現代は多分「無間道」だと思うのだがこの意味はネタバレになりかねないので置いておくと
して、よくできた映画である。香港映画音痴の俺としては荒削りというか硬派な心理描写を経てクライマックス(ちょっとホロッ
ときた)に持っていくメリハリは、今の日本映画(あまり見てないけど)が無くしてしまったダイナミズムなのではないだろうか。
映画的反射神経と言うか。なんか頭よりも、身体で考えて―とてもとてもよく考えて―作られた映画だという気がする。
やはりこの映画が気に入った知り合いと冗談でパート2の話をしていたら、実際2は既に上映されていて現在3を製作中らしい。
2の内容は知りたくなかったので記事(IMDBに出てます)は読まなかったのだが、どうやら1を遡って過去の話らしい。何だか
見たいような見たくないような…
キル・ビル 【Kill Bill】
Director: Quentin Tarantino / Cinematographer: Robert Richardson
はっきり言ってしまえばアニメとヤクザ映画の好きな日本サブカルおたくが、やりたい放題作った映画になってしまった。
しかも肝心な悪玉との対決は第2弾で、つーのはどーゆーこと?「客を舐めとんかい、ワレ!」とこっちが日本刀振り回し
たい気分である。しかしこんなことが通用するのはタランティーノのある意味では人徳(?)みたいなところもあって、次は
しっかりやらんといかんよ、と言ってしまいそうにもなる。(甘いよな〜)
何となく遅くかかった麻疹(キツイそうです)、年食って覚えた風俗(はまるそうです)みたいなもんで、「ボクちゃんこれが
やりたかったんだ!」が炸裂している。1回通る道なのか、だとすると次回すっきり暴れてくれるのか、等々映画のことより
タラちゃんの今後を考えてしまった一本だった。(それにしても、ちょっと評価甘いよな)
甘さの言い訳ではないがこの映画を高く評価する人もいる。そういう意見を見聞きしていると、タランティーノが映画を愛した
ように彼らも映画を愛していて、「俺は如何に映画と交わってきたか」という点での大いなる共感を寄せているように感じる。
確かにその共感が集まるだけのパワーがあることは認めなくてはならないだろう。映画作りに直接関ったことはないが、あの
混沌とした現場で純粋に我儘を貫くのは利己的というよりも奉仕のようにさえ見える。(この混沌を「映画作りは祭りだ!」とか
寝言を言いいながら、結局は現場の雰囲気に流されているだけの自称シャシンヤがまだまだ多いようだが)そういう意味では
「ボクちゃんやりたい放題」でありながら映画に捧げる尋常ならぬ量の敬意と愛情という点では只者ではない一作かもしれない。
なんだか日和見的なコメントになってしまいそうだけど、この決着はVol.2で。待ってろタランティーノ!(逆か…)
ジョニー・イングリッシュ 【Johnny English】
Director: Peter Howitt / Cinematographer: Remi Adefarasin
「Mr.ビーン」がブームになったことをつまらなく思っていたひねくれファンとしては、「あのローワン・アトキンソンが…」という
前振りを聞くたび不安になる。(映画版のビーンは見てないけど)やっちゃった、またはやられちゃってないかな…と。しかし
そこはひと安心。多少お寒い場面もありつつ普通に楽しめるコメディになっている。悪役のジョン・マルコビッチは手馴れた
演技で規定クリアという感じだったが、脇役ボフ役のベン・ミラーはなかなか良かった。ちょっと「ウォレスとグルミット」の抜け
てる飼い主を甲斐甲斐しくフォローするグルミットのようでチャーミングな存在感があった。(ケンブリッジ大学で物理学の博士
課程にいる、つーんですけどアトキンソンも含めて二人ともインテリなのね)ただ、なんか毒というか隠し味程度のヤバさが
欲しかったな、という気がする。ここではアトキンソンは「Mr.ビーンの役者」として扱われていて、脚本や製作にほとんど関ら
ないお客さまなのだろうか。
マッチスティック メン 【Matchstick Men】
Director: Ridley Scott / Cinematographer: John Mathieson
<ちょっとネタバレかも>
こういった「詐欺もの」映画の場合、最終的には観客も騙しちゃうというパターンが多いので当然そうくるだろうと思って
見ていたのだが、案外素直な展開で気を抜いていたら最後に「やっぱそうなるわけ!?」とすかされた。と言っても
「こりゃ一本取られた」のではなく「そういうの、あり?だったらもっとやりようあるっしょ」という感想。何かテレビ映画みたいな
つくりなんだよなー。
たださすがリドリー・スコットというか、映画としてはしっかりしている。ニコラス・ケイジはいつも思うのだが、最初はオーバー
アクト気味でしつこいオッサンやなぁ、と思ってみているうちに次第にそのキャラクターが自然に思えてくる…これも役者としては
ひとつの力なんだろう。サム・ロックウェルの庶民的ブラピな感じ(東中野商店街のキムタクみたいな)とかアリソン・ローマンの
困らせ上手ぶりもなかなか良く、サクっと見るには問題ない。しかし「問題ない」つーのは映画に取っては結構問題で、何か熱と
いうか狂気というか、もうひとつ塩味足りないなー、という1本ではある。
ケン・パーク 【Ken Park】
Director: Larry Clark, Ed (Edward) Lachman / Cinematographer: Larry Clark, Ed (Edward) Lachman
LA郊外に住むティーンズの、ホントどうしようもないぞオマエら、ひとりひとりは意外といい子だったりするのに…
というお話。リアルである。しかしそのリアルがよくない。ボカシ(久々に見たなぁ)付きセックスシーンの見え方なんかは結構
際どい演出にも思えるがそれはあくまで物理的な際どさであって、だったらポルノと同じことだ。反対に「キッド」や「ブリー」に
あったあのヒリヒリするような雰囲気がない。
監督とカメラが同じなのはコピペの間違いではない。IMDBの記述では一応こうなっているのだ。で、それが問題なのかも
しれない。エド・ラックマンはヴィム・べンダースの「東京画」や「バージンスーサイド」などのシネマトグラファーでとても艶っぽい
画を撮る。自分も一度CMで仕事を一緒にしたことがあるが、モニター越しの映像が濡れていて、「このオッサン、エッチつーか
変態ちゃう?」と思った。本人はジョン・マルコビッチのやせた弟みたいで、ジェントルでいい人なのだけどどこか狂気を感じさせる
所があった。もしかしたら、お互いクレイジーなアウトロー的ハイ・センシビリティ親父として気が合っちゃったのかもしれない。
彼との共作は、「エド、オマエは最高だぜ」「そういう君も相当イケテルよ、ラリー」みたいな「君しか見えない」状態の製作に
なっちゃったりしたのかも…と考えると、また別の興味も沸いてくるのだが、とりあえず今回はいまいち。つーか昨日読んだ
「阿修羅ガール」の方が鋭くいけてるかも。
28日後 【28Days Later】
Director: Danny Boyle / Cinematographer: Anthony Dod Mantle
交通事故で意識を失って28日後に目覚めたら、世界がえらいことなっていた、というお話だ。この設定のポイントは
ことの過程(人々は事情がよく飲み込めないまま、世の中の崩壊とともに意志や健康を失っていく)を知らずに済んだ
人間の秘めた可能性という切り口。全く他所から来た登場人物ではないからその場所が平和だった頃の記憶も持って
いるわけで、心理描写の上でもさまざまな描き方ができるはずだ。この主人公ジムは望んでもいないのに傷つき、戸惑い
ながらも目の前の事態に立ち向かわざるえなくなる。
しかしこういった「世界の終末」話を描くならばどこかに「神の視点」が必要なのではないか。自分は一連のゾンビ映画に
ついては詳しくないので(ロメロ3部作も見てないもんで…)、その程度の低い焼き直しだという説はよくわからない。しかし
そのゾンビものある種の「超えてしまった」世界が描かれているのではないだろうか。「神はもういないのか」とか「なぜ神は
こんなことをなさるのか」とか、過激さを経て生まれてくる嘆きに達するパワーは感じられなかった。一本の映画として、俺は
面白いと思うし十分楽しんだ。でもレッド・ゾーンを振り切っていたか、というとそこまでは、という感じである。
ノックアラウンド・ガイズ 【Knockaround Guys】
Director: Brian Koppelman, David Levien / Cinematographer: Tom Richard
キャッチコピーは“マフィアの世界に生まれたオレたちの、これがデビュー。”「トリプルX」のヴィン・ディーゼル
主演で、マフィア育ちの若者のスタイリッシュなバイオレンス映画、みたいなふれこみの一作だ。B級くささが
プンプンするが、脇を固めるのがデニス・ホッパー、ジョン・マルコビッチの曲者たちで(これで見ようと思った
ようなものだ)、「レザボアドッグ」みたいな荒削りながらもイケテル一本を期待しつつ、改装工事中で埃くさい
シネパトスに向かった。
しかし今回は、してやられた!という感じ。プロデューサーのローレンス・べンダーはレザボアドッグから最新の
キル・ビルまで一連のタランティーノものの製作を担当している実力者であるが、今回生きてこなかったようだ。
大体見ればわかるがこの映画の主演はどう見てもマフィアの長男坊役のバリー・ペッパーで、ディーゼルは脇を
固めるナイスガイであるし、そもそもこれが撮影されたのはトリプルX(2002)より一年前の2001年である。
「トリプルXよりさらに…」という物言いはそれ自体が矛盾である。映画の宣伝には何の文句もないし、配給側と
して前向きに語りたいというのは当然だ。しかしもう少し誠実さが必要じゃないのか?これではやり逃げ広告で、
却ってファンに対して逆効果になっている。IMDBには「99セントの安レンタルで充分」という辛辣な評価があった。
確かに出来はよくない。しかし見方によっては楽しめる部分もあるし(俺に取ってはどの映画もそうなのだが)、
そういう「いいところも見てみよう」という意識を殺してしまうよ。
ストーリー自体は、面白くなりそうな要素がある。親と子の葛藤やアメリカのド田舎の人間像なんかは料理の仕方
次第ではマフィア&バイオレンスというフレームのいい隠し味になりそうだ。監督の二人は「ラウンダーズ」の脚本を
手がけていて、決して才能ないわけではないのだろうが演出には向いていなかったということのなのか。役者の中で
惹かれたのが、アメリカの田舎町を牛耳る保安官を演じたトム・ヌーナン。厳格な堅物シェリフとして生きているが、
ふと出くわした5,000万ドルの現金にひとつの賭けに出る…というありがちな設定ではあるがなかなか真実味が
あった。なんでも元はギタリストで、脚本やプロデュース、ニューヨークでの自分の劇団活動を行うなど、結構真摯な
演劇人のようだ。マイルドなキース・キャラダイン、素朴なサム・シェパードのような佇まいはちょっと気になる。
しかし予告編の中のいちコピー“巨額の裏金を回収せよ”が皮肉に聞こえるなぁ。低予算であることは仕方がないが、
ちゃんと回収できたのだろうか?
特別企画、機中3本勝負!(つーほどのもんでも…)
遅めの夏休み、ということでちょっくらアイルランドに行ってきた。で、久し振りに飛行機乗って興奮していたら
(子供かよ!)ちょうど見たかった映画がラインアップされている。到着後のことを考えると寝た方がいいか、
と思いながらついつい見てしまったこの3本。機内用の編集なので劇場版と同じには語れないけれど、ともかく
見たからには書いちゃいます。
Finding Nemo
Director: Andrew Stanton / Cinematographer: Jeremy Lasky, Shalon Calahan (from IMDB)
別にアニメ好きでもディズニーファンでもないけれど、このピクサーの最新作は気になっていた。トイストーリーも
なかなか良さそうだったし。しかし日本上映は12月。随分先だな、と思っていたら機内で上映中。他のどの映画
よりまず先にこれを見てしまった。面白かった。他愛ないストーリーと言えばそれまでだが、各キャラクター設定や
話のテンポのよさ−これは年齢関係なく楽しめるエンターテイメントだ。興味深いのは、CGの技術が上がるにつれ、
絵の印象が昔の手書きセルアニメの人間くさい雰囲気に何処となく似てくること…少なくとも俺はそう思う。動きの
立体感や水の質感(これはある意味で、全く気にならないほど素晴らしい)はデジタルならではの仕上がりだが、
今回はそんなことを意識させないという点での成功なのだと思う。そういえばデジタルビデオも、目指すところは
フィルムの画質だと聞いたことがあるなぁ。
Secretary
Director: Steven Sainberg / Cinematographer: Steven
Fierberg
監督の名前が似ているせいか、スティーブン・ソダバーグの「セックスと嘘とビデオテープ」と印象がかぶった…
というのはあまりにも単純かもしれないが、リードしているつもりが、いつの間にか立場逆転の男と女、みたいな
部分は微妙に重なって見える。(勝手な思い込みだけど)もの凄く乱暴に言えば、「変態純愛映画」だろうか。アル
モドーバの一連の作品にも感じるのだが(まあ、こっちはかなり濃いけれど)、入り方はアブノーマルで結果的に
お伽噺のような雰囲気で締めくくられる、というのはある種自然な流れなのかもしれない。(それ狙いでやっちゃ
いかんと思うけど。)しかしジェームス・スペイダー、はまってますね。何かプリティ・イン・ピンク(1986)の嫌味な
高校生が弁護士になって20年後にそのまま登場したようでもある。
Phone
Booth
Director: Joel Schumacher / Cinematographer: Matthew
Libatique
これも見たかった一作。コリン・ファレルは「タイガーランド」(ちゃんと見てないけど)の反抗児っぷりがなかなか
良かったが、「マイノリティ・リポート」の捜査官みたいにエリートを演じると見事なくらい脇役的存在感プンプンに
なっちゃう(まさかトム・クルーズに遠慮した訳じゃないだろう)ようで、今後の精進に期待したい(なんのこっちゃ)。
もうひとつ塩味が利いていても、という感はあるが、緊張感を持って楽しむことができた。今度は劇場できっちり
見てみよう。ところで電話ボックスものといえば、私の卒業制作のショートフィルムも電話をネタにしたもので、約
一部では評判が良かったのですが…あ、誰も聞いてないか。
慌しい旅の途中で見たこの3本は、幸いなことにどれも楽しめるものだった。しかしその後、昼間のビールで鬼の
ような眠気に襲われて参ったことを申し添えておきます。まあどっちを取るか難しいとこかな…
ジョゼと虎と魚たち
Director: 犬童一心 / Cinematographer: 蔦井孝洋
関係者中心の試写会で見た。上映前には舞台から犬童監督と主演の妻夫木聡と池脇千鶴の挨拶。これも
試写会ならではの楽しみなのだろうが、ちょっとばかし長かった。それは彼らの問題ではなく、司会を務めた
配給会社の人の目線が一般のファンよりプレスの方ばかりを向いているように感じられたからだ。(と言っても
これは関係者向けの試写会。この作品を何とかアピールしたいという思いの表れなのかもしれない。)
犬童監督は渡辺あや氏の脚本が大変素晴らしくて、僕はそれをきちんと撮っていっただけとコメントしているが、
そういう一面もあるかもしれない。岩井俊二氏のサイトのシナリオ公募(しな丼)から登場してきた彼女の才能は
確かに感じることができた。映画に太くてしかも繊細な流れがある。
しかしフィルムの間(行間、みたいな感じだろうか)に流れるテンポ感やシーンごとの間は、犬童監督のもの。上手く
表現できないが、「二人が喋ってる」や「金髪の草原」と同じような時間の流れ方を感じるのだ。この時間の流れは
ゆったりとしていながら、よく巧まれている。舞台で妻夫木聡が述べた「犬童監督は、のほほん(だったっけ?)と
しているように見えて計算高いお人」というコメント−映画監督としては褒め言葉だ−に思わず笑ってしまったが、
それは俺の感じた「犬童時間」にもあてはまるかもしれない。ひと癖あるラブストーリーですが、いい映画です。晩秋
(って配給元は言っているんだけど、何か悲しくない?それとも狙いなのか…)シネクィントあたりからだそうです。
ファム・ファタール 【Femme Fatal】
Director: Brian De Palma / Cinematographer: Thierry Arbogast
この題名、「欲しいもの−。私は総てを手に入れる。」というコピーに男性陣はバンデラスとくれば、こりゃあ
濃厚でスキャンダラスで意表をつくセクシー・サスペンスを期待してしまうのも、あながち的外れとは言えない
だろう。しかし見終わったときに残ったのは、ひたすら「???」。これがいわゆるデパルマ節なんでしょうか。
画面を左右に二分割する手法などもどこか古めかしく、名画座で映画を見たような印象だ。男たちが身体に
ぴちっとしたスーツを着ていた頃のテンポ感。くわえてストーリーは、「さあ罠がしかけてありますよ」と謂わん
ばかりのわかりやすさ。「ユージュアル・サスペクツ」(これが手放しでいいという訳ではないが)とか見ている
いまの観客には、ちょっと工夫が足りないかもしれない。
とか書いてはみたものの、何故か見た後でひっかかる。過去のデパルマ作品を見返したくなる。(といっても
殆ど見てないのだけど、私の場合)何か強い印象が、整理されずに頭の中に居座っている。名投手はコースを
外れた失投もそれなりに凄い、という感じなのだろうか。
アダプテーション 【Adaptation】
Director: Spike Jones / Cinematographer: Lance Acord
「マルコビッチの穴」(Being John Malkovich−この邦題はなかなかイケてる)の脚本チャーリー・カウフマン
(Charlie Kaufman)とのコンビ。しかもニコラス・ケイジ演じるカウフマン自身と双子の弟(架空の存在)が
主役となるややこしい設定。この辺のややこしさは前作と共通している。実在の人物や設定をストーリーに
織り交ぜ、どこまでが事実でどこからがフィクションかよくわからず見いているうちに、どんどんその世界に
巻きこまれてしまう。一種の内輪ものかと思うと、ストーリーは外に向かってしっかり展開していく。この「持って
いかれる」感覚がこのコンビの真骨頂なのではないだろうか。もしかしたらどこまでが事実でといった規定は
彼らには関係ないのかもしれない。事実も作り話もすべてが映画のネタであり、それを自由に組み合わせて
調理していくという意味では既存の作法にこだわらない「創作料理」の作り手のようでもある。
何故かこの映画、監督のスパイク・ジョーンズの作品というよりカウフマンの仕事という気がしないでもない。
あるいはサイモンとガーファンクルのように、作り手とパフォーマーの幸せな関係がそこにはあるのだろうか。
うちの奥さんは、カウフマンは「新しいウディ・アレンのようだ」と言う。映画なんて嘘っぱちの作り物だという
ことを知っていて、かつそれをとても愛している辛辣で照れ屋で誠実な映画作家、なのかもしれない。
「難しい」「わかりにくい」と感じる人もいるだろうが、これは決してサブカルおたく好みのスノッブな映画ではない。
素直に持っていかれて、「なんか変な話だけど面白かった」と思える秀作だ。騙されたと思って見ると楽しいよ。
HERO 【英雄/Ying xiong】
Director: Yimou Zhang(陳凱歌−チャン・イーモウ) / Cinematographer: Chrystopher Doyle
この映画、知人のコメントによると「広告的な映像」とのこと。「広告的」とは何だろう…ジェット・リーが劇中で
時代考証無視のドリンク剤でも飲んで飛び跳ねているのだろうか…んなことはありえないので、気にして見て
いたら(別に集中できなかったわけではない)、その訳は「シンボリック」ということかもしれないと思った。
二転三転するストーリーは「羅生門」を思わせなくもない。(落としどころはかなり違うけど)Yahooのサイトには
「Dolls」と比べて語る人もいた。そっちは見てないのでよくわからないけど、多分色彩からの連想だろう。何が
言いたいかと言うと、見る人間の思い入れに対して守備範囲が広いのではないかということ。映画でも音楽でも
ヒットする作品を見ていると、好きな人の感想が結構違うことがある。「ホントに同じもの?」と言いたくなるような
こともあって不安に陥るが、逆にそれが幅広く受け入れられるということなのかもしれない。
先日レストランで食事をしていたら、元大学のゼミ仲間(年齢は結構高い)風のアカデミックというか書生くさい
集団の会話が聞こえてきた。
「○○さん(お嬢さんらしい)へビィ・メタルとかも好きなんですって」
「えーっ、好きなのはクラシックだけじゃないの!?」
「でもシベリウスなんかの新しいクラシックの持つ反権力志向と、アイアンメイデンとかの左翼性は通じるところが
あるから、それほど意外でもないんじゃない?」
「へぇーっ!!!(尊)」
…スティーブ・ハリス(IMのーダー)もびっくりという感じだけど、これもポピュラーであることの副産物だろうか。
でこっちも話が二転三転してしまったが、アクション(多くの人が指摘しているように最初のドニー・イェンとジェット・
リーの闘いの後は、ちょっとゆるく感じてしまうけど)、ストーリー、映像ともに工夫を凝らしたレベルの高いつくりに
なっているのに、面倒なところのない純エンターテイメント、というところが凄いところであり、それはとりもなおさず
広告というものが目指す「シンプルに、しかし深く伝える」指向性と重なってくるのではないだろうか。
えっ、深読み?だって、そうしたくなっちゃう位の、たいした映画ですぜ。ちなみに件のレストラン(つーかビストロ)は
値段も手頃で味も素晴らしいです。興味のある方はメールでも。
白百合クラブ 東京へ行く
Director: 中江裕司 / Cinematographer: 具志堅剛 (監修 高間賢治)
最近仕事の関係で老人ものをチェックしているのだけど、そんなこととは関係なく楽しめた一本。実は数日前にNHKで放送
された関連番組である程度の事前知識を得ていて、その分とっつきやすかったのかも知れないがやはり良質のドキュメントと
言っていいだろう。もちろんドキュメントと言っても、クラブの東京公演自体にスタッフやブームのメンバたちが深く関っていたりと
「ただそこあるものを撮る」というフィルムではない。しかし面白くするために虚偽の映像やストーリーを盛り込む「ヤラセ」でない
限りそれは問題ではないと思う。ドキュメンタリーと言えどもやはり作品であり、撮られる対象との共同作業であるからだ。
そんなことを書いたのは−ほんとは「楽しい映画だったなー」と理屈抜きのコメントで済ませたかった−先日朝日新聞に掲載された
ドキュメンタリー監督の森達也氏の「ボウリング・フォー・コロンバイン」評を見たからだ。氏はこの映画に対して、ドキュメントとして
凡庸で何故これがそれほど評価されるかわからないとコメントしている。もっと良質の作品が多数見られるということで山形映画祭の
ことも述べている。しかし氏の言う凡庸、良質の基準は一体なんなのだろう。BFC は別に芸術的なフィルムでも戦地で命を懸けて
撮られたものでもない。(しかしムーア氏も、ネオコンや保守派からのプレッシャーは少なからず受けているだろう)そんなことが基準
なら映像作家(狭義での)かジャーナリストになるべきだ。どんなに深刻なテーマを扱っていても、一本のフィルムとして、広い意味で
観客を惹きつける力を持つべきだ。本来BFC は「アメリカの銃社会を告発する」ものではなく、その問題に対してひとりのアメリカ人が
どう対応したかという記録だ。「俺だってライフル協会会員だし、べつに理想主義者でもないけど、最近ちょっとおかしくないか?」という
疑問にカメラを持ってあたっていった話だと俺は思っている。確かに大騒ぎが起こったり人か死んだり傷ついたりするドラマチックさは
ないけれど、もしその点をもって凡庸と言うのなら氏のドキュメント観に首をひねらずにはいられない。
再び白百合クラブ。欲を言えばもう20分ほど短くすればもっとキレがでたのに、など思うことはあるけれど、いい気分で劇場を出られる
ことは間違いない。温かくてゆるい、陽性の癒しっていうのがやっぱ石垣島なんでしょうかね。
マイ・ビッグ・ファット・ウェディング 【My Big Fat Greek Wedding】
Director: Joel Zwik / Cinematographer: Jeff Jur
ちょっと婚期遅れ気味の、冴えない女性の恋。周囲の反対を乗り越えハッピーエンドという、かなりありふれたストーリー。
それは良いとして(ありふれた設定の名作だって幾つもあるし)なんかガッツが感じられないのだ。恋愛もののカタルシスは
何らかの障害に登場人物が向かっていくところから生まれるのだと思うのだが、この映画の恋人たちは「やれやれ、参ったな」
という姿勢をとり続けるだけで自ら運命に向かっていない。そんな話をどう楽しめというのだろう。
少女漫画のファンではなかったが、数10年前それがサブカルチャーの要素として捉え始められた頃少し読んでいたことがある。
(竹宮恵子は素晴らしいと思ったけど)その頃いちばん苦手だったのが、地味で目立たないけど性格はいい主人公が仲間内の
ヒーロー(ある種の王子様ですね)に恋心を抱くが、自分なんかとダメと思い込みひたすらウジウジしたり泣いたりする。しかし何故か
王子様は彼女のことを目にとめ見事恋人同士に、というパターン。あのなー、お前自分じゃなんもしとらんだろう、と思うと、派手で
意地悪な敵役の少女の肩をもちたくなったりする。
しかしこの映画のファンって、一体どこが良かったのだろうか。もしかして俺が、「女心」ってのを全くわかってない、てことなの?
ライフ・オブ・デビッド・ゲイル 【The Life of David Gale】
Director: Alan Paker / Cinematographer: Michael Seresin
「ユージュアル・サスペクツ」を深刻にしたような一本で、重い一撃を喰らったような気分で劇場を出た。ケビン・スペイシーは
死刑制度というテーマの重さに負けない存在感をしっかり出していて、ケイト・ウィンスレットはそこに華をそえている。ふたり
以外のキャラクターもしっかりと立っていて、役者の使い方という点ではアラン・パーカーは素晴らしい。展開はストーリーを
見失わない程度にトリッキーで、一体どうなるのか、何か仕掛けが隠されているのかと身構えながら目が離せない。隣に座った
比較的年配の夫婦は映画が進むにつれて文字通り身を乗り出して見ていた。
敢えて言えば、その「目が離せない」ところが惜しいのかもしれない。多くの観客が話の成り行きを追いながら、時折死刑制度に
ついて思いを巡らせたのではないだろうか。テーマやストーリーはきちんと伝わっている。しかしそれだけではない、文章でいえば
行間にあたる部分をもう少し味わいたかった。緊張感一辺倒で進んでいくのではなく、いい意味で力の抜けた部分もあったら、重い
だけではなく、深い読後感のような(映画の場合なんていうんだろう)ものがあったのではないかと思う。とは言っても最近の映画の
中では出色の出来。だからこそ気になったのだけど、ちょっと贅沢な要望かなぁ…
トーク・トゥ・ハー 【Hable con ella / Talk to Her】
Director: Pedro Almodovar / Cinematographer: Javier
Aguirresarobe
前作「オールアバウト・マイマザー」に比べるとやや映像的なこってり感がやわらいだが、しかしアルモドーバ節は健在。
客観的には単なるストーカー&変態(おまけに犯罪者)な男の一途さが、何故かしっくりと見えてしまう濃〜い世界観は
この監督しか描けないものだ。(もしかしてソダバーグなら、という気もするけど)彼の映画を料理に例えると、何が入って
いるか訳のわからないごった煮だけど、妙にいい味がでお代わりしてしまった、という感じかもしれない。こういうのって、
癖になるんですよね。
ストーリーの節目で出てくるスーパーの不思議な見せ方(結構凝っている)や、何故?みたいな部分も多いのだけど、
その意味を問うのではなく、かといって感じようとするのでもなく、ただ「何かよく分からないけどいいみたい」みたいな
心地よさがあった。それからスペイン語のやり取りが気持ちよくて、ちょっとやってみようかな、と思ったりもした。しかし
何か頭悪いサブカルっ子みたいな感想だな…
チャーリーズ・エンジェルズ:フルスロットル 【Charlie’s Angels: Full Throttle】
Director: McG / Cinematographer: Russell Carpenter
周囲からはダメ映画の評多し。多分そうだろうなと思いながら見たら、やっぱり前作よりもかなりダメ。それでもその
ダメさを結構楽しんだ。全体的にアクションや仕掛けをやり過ぎた結果か、ストーリーの軸や役者の体温みたいなものが
薄くなっている。前回はなかった、ディラン(ドリュー・バリュモア)の葛藤というドラマの要素が折角あるのだから、激しい
カンフーは今回お休みするとしても、ここらで役者として魅せてくれてもいいだろう。この辺McGの子どもっぽさが裏目に
出ている気がする。しかしそのお子さま、パワーがあるのは事実で「もう勝手にしてくれ」と言うしかない暴れっぷりは
ある意味では面白かった。過剰な期待がなかったせいで、儲けものの感ありの一本でした。
アレックス(ルーシー・ルー)の彼氏ジェイソンを演じるマット・ルブランはあのTVシリーズ「フレンズ」のジョーイ役だが、
見事なくらいキャラが同じ(狙っていたとは思うけど)。役者としてはどーなの?という感じだが割り切っているのか、それ
とも何やってもああなっちゃうのか。ジェニファー・アニストンもすぐレイチェルになっちゃうしな…
パンチドランク・ラブ 【Punch-Drunk Love】
Director: Paul Thomas Anderson / Cinematographer: Robert
Elswit
「ブギーナイツ」「マグノリア」に続くPTA(頭文字だとこうのなるのか…)の新作ということで期待して行ったのだが
今回はもうひとつ。全体を通じ、PTAならではのフィルムの個性はしっかり感じられる−得てしてこういうものは才能の
守備範囲なのだが−が消化不足の感は否めない。かえって随所に見えるセンスがこの作品の印象をちぐはぐなものに
している。タレンテッド・クリエーターの失敗作と言えば、彼やこの作品を擁護しているように聞こえるかもしれないが、
次にここからしっかりしたものを作っていくのも結構キツイのではないのだろうか。
アダム・サンドラーもいいのだ。ホフマンは安定感すら感じせる。しかしポスターなどに一貫して使われているパステルの
虹のようなグラフィックはこの映画のある種のシンボルであるようなのだが、もうひとつ機能しているように感じられない。
こういった全体につきまとう、微妙なちぐはぐさに最後まで悩まされた。(音楽も必要以上に大きいし)
もしかしたらPTAは若き職人さんなのかもしれない。ひとつ年上のスパイク・ジョーンズとはタイプが違うのだ。映画の
構造として実はオーソドックスな「ブギーナイツ」には27歳(そう考えると凄い…)の勢いが詰まっていた。さあ、どっちに
いくんだPTA、というなんか保護者のような感想を今回は持ってしまったなぁ。
ターミネーター3 【Terminator 3: Rise of the Machines】
Director: Jonathan Mostow / Cinematographer: Don Burgess
拝啓ハリウッド様、今まであなたには何度も裏切られてきた私ですが、今度こそはと信じて映画館に向かったのです。
あなたが、ややこしい人間の真実やら社会との葛藤やらパッとしない男たちの意地や女たちの愛に無関心なのは当然
承知でしたが、そんなことは期待していません。ただドカーンとデカイ花火を打ち上げられるのはやっぱりあなただけ。線香
花火のささやかな美も素晴らしいのですが、たまにはババンとそういうやつも。しかし今回、どうも不発弾だったようですね。
アクションシーンはそれなりに見せてくれましたが、クライマックスは…どこにあったのでしょうか。
ジョン・コナーが大きくなった分シュワちゃんの存在感が薄くなっている。役者の力量としてではなく演出上の問題だ。
シュワちゃんには失礼だが彼の持ち味は「人生の意味や真実を求めようとする、誠実で頭の良くない男」なのではないか。
「哲学の本を一所懸命読んだけど、全然わからなかったよ…」と少し寂しそうに笑いながら、なお前を向いていこうとする
ゴリゴリした男。だからもっと悩ませてあげなくちゃ。いくつかチャンスはあったはず。リンクさせてもらっているSTRANGE
LOVEのデッカードさんがハリウッドのマーケティングの浅はかさを指摘していたが全く同感。金属と半導体チップの固まりで
あるターミネーターに血を通わせてこそ映画ってもんだろう。
ときにクレア・デーンズ。彼女主演でスティーブ・マーチン原作、脚本のShopgirlが製作中の模様。彼らしい、どこか
覚めた、でもセンチな小説でなかなか面白かった。しかもメインの男があのサタデー・ナイト・ライブのジミー・フェロン!
ちょっとこれは見なくては…でも興味ない人にはヒットせずにHigh FidelityやAlmost Famous(あのころペニー・レーンと)
みたくなってしまうかもしれないけど。
シティ・オブ・ゴッド 【City of God / Cidade de Deus】
Director: Fernando Meirelles / Cinematographer: Cesar
Chalone
「面白い」でも「よい」でもなく「凄い」と言ってしまう映画だ。しかしその「凄さ」はどこからくるのだろう。ストーリー自体が
実話に基づくものであり、「神の町」と逆説的に名づけられたスラムのすさまじい現実も要因のひとつだろう。しかしあっけなく
人が殺されたりすることや、スラム暮らしの出口のないやりきれなさといった素材だけではなく、こういった題材に迫っていく
語り手の気迫のようなものにあるのではないだろうか。
「8マイル」を見たときに、「映画自体としてヒップホップ的であればいいのに」とを思ったのだが、具体的なイメージは自分でも
描けなかった。その答がここにあるのかもしれない。深刻な題材を扱いながら情緒的な思い入れがない。誤解を恐れず書けば、
人が虫けらのように殺されることも、制作者にとっては映画の題材のひとつでしかないという徹底。彼らが人の命を大切にしていない
とか、その場所に生きる人たちを尊重していないとは全く思わない。全く逆だろう。しかしカメラを回し始めた以上、映画を組みあげて
いくことに専念するのが素材に対する仁義である、といった精神を感じる。
ドキュメントである「ボーリング・フォー・コロンバイン」がどこかユーモラスな空気を漂わせいてることと、事実に基づく映画である
この作品が冷めた視線をもって描かれたことは逆のようでもあるが、映像の話法という点で相通じるものがある。
いやー、という風にいろいろ考えちゃう映画でもあるが、そういうの全部抜きにして見ても、やっぱり息をつかせない迫力とストーリー
展開の面白さは文句なしの一本だ。やっぱ、そこが「凄い」とこなんだろうな…
人生、時々晴れ 【All or Nothing】
Director: Mike Leigh/ Cinematographer: Dick Pope
飲み食い好きの自分だが、今日日(きょうび、ってこれでいいんだっけ?)の「プロデュースされた店」というのが
どうも好きになれない。内装もメニューも趣向を凝らしてはいるのだが、それはあくまで趣向(=物事を実行したり
作ったりする上の面白い(変わった)アイデア/新明解国語辞典)でしかなく、メシをつくる、酒を選ぶ、そしてもてなす、
それぞれの人間と直に出会うことはできず、プロデューサーの作った枠の中にちょこんと座らされている感じだ。
自ら自分たちの店を「食のテーマパーク」というような言い方をする人間もいるけど勘弁して欲しい。食って飲んで話を
するのは人間の生な楽しみで、それを誰かにプロデュースされたくはない。ここのところ見た映画、どれもよくプロデュース
されている。面白いのもつまらないのもあったが、何か物足りなかった。「人間が見たい!」と思った。
それをじっくり味わえたのが、この作品。多少かったるくなる場面もあったが、人間を見せてもらった。決まった
脚本を持たずに現場で作り上げていく手法の成果なのか、一部の退屈さも含めてリアルである。登場人物たちは
暖かい心根を持ちながら適度に欠点もあり、平凡なキャラクターを非凡な冴えで描き上げた。
夫婦二人で切り盛りしているこじんまりした居酒屋で、手製のうまい煮込みや懐かしいポテトサラダを食いながら
ひとり手酌で飲むビール、のような幸せである。
ミニミニ大作戦 【The Itlian Job】
Director: F.Gary Gray/ Cinematographer: Wally Pfister
以前から元気なちびっ子のような新しいミニが気になっていたのだけど、この映画で妙に人気が出ると
嫌だなあ(買わないくせに)と思ってしまったくらい、クルマはかっこよく映っていた。この映画がミニの
売り上げにどう影響するか興味がある。小さな車のカーチェイスで思い出すのは’81年のフランス映画
ディーバ。狭い道や地下道を使ってのカーアクションはLAのハイウェイで走り回るアメ車に比べて新鮮で
小粋に見えた。
映画自体は力があるというより、しっかりしたキャラクターを持った役者たち(皆いい味なんだけど)が自分の
仕事をきちんとこなした、という感じの仕上がりで、安定感のある楽しさだが新たなチャレンジは感じなかった
−そういうものがこの映画に必要かどうかは意見が分かれるところだろうが、’69年の同名(原題も)作品の
素晴らしさに敬意を表して対して何かみせるというのがリメイクの仁義というものではないだろうか。では自分
だったらどうするか?そーだな、エドワード・ノートンのキャラをもっと掘り下げるかもしれない。何故仲間を裏切
ったのか。ドナルド・サザーランド演じる泥棒ジョンへの思いは?(スコアみたいなパターンものになるのは御免
だが)彼への復讐計画が進む一方本人は何をしていたのか。何を考えていたのか。その辺をピリッと描いて
みたいなぁ。
コンピューターの天才がハッキングして極秘情報を手に入れたり相手のシステムを攪乱したりするアイデアは
面白くはあるけれど、ややもすると空手やカンフーがアクション映画で使われ始めた当初の「問答無用のオール
マイティカード」的に扱われると、ストーリーの深みを損なってしまう。「すげー、あんなことできちゃうわけ?」
「だって天才ハッカーだもん。」だけで安易に話が進んでいくことの危うさを感じてしまうのだ。
ホーリー・スモーク【Holy Smoke】
Director: Jane Campion/ Cinematographer: Dion Beebe
前向き週間(?)第2弾がこれというのは神の試練か、と思うくらいの辛い作品だった。批評すら不可能な感じもある。
印象としては「シャイニング」のジャックが「ベニスに死す」のアッシェンバッハに乗り移ってオーストラリア風に(好きな
国です!あくまでモノの例え)大味にした感じだろうか。もしもこれを自分が監督したら…どこから手をつけるかだけど
この際思い切ってキャスティング変えてしまおうか。ケイト・ウインスレットをブランシェット、じゃなくて、彼女の英国の
ジョディ・フォスター的な熱演―JFって女性版デニーロみたいに思えるのは俺だけだろうか―や、ハーベー・カイテルの
達者振りが、カルト宗教や理性を越えた男と女の情念みたいなものに翻弄されるというストーリの流れとどうもしっくり
いっていない。で、思い切ってこういうのはどうでしょう。広末涼子と真田広之。はまって振り回されてわめいて、最後に
切なくもハッピー、というのはいけるような気がする。まあ、これじゃ全くの別ものかもしれないけど…(でもちょっとこの
組み合わせいいと思いませんか?)
ザ・コア【The Core】
Director: Jon Amiel/ Cinematographer: John
Lundley
ひょんなことがきっかけで、なるべく前向きなことを書こうと思った。ダメ、下手、つまらんなら誰でも書けるし、わかった
ようなことを言って自己満足に浸るのはみっともないし。ああ、なんて崇高な心構えだろう。いやいや、映画を愛するもの
なら当然ではないか、でいきなりこの映画…困った。
設定もキャラクターも演出もかなり平板で、ほとんど「ありきたりの大作」になっている。退屈はしなかったけれど、そう
いわれるために作ったわけでもないだろう。もし自分が監督で話を受けたら(すでに妄想モード)訳のわからない地中の
CGなどに金を使わず心理劇のようにしたかもしれない。(いや、どーやってと言われると難しいんですけどね…)
宇宙と違って地中の場合、外に星が見えるわけでもない。いっそ密閉された状況を生かした方が活路があるのではない
だろうか。そのとき注目したいのが「妻と子供を救う勇気があればいい」と言い我が身を犠牲にする仏人科学者サージと、
親子でありながら任務の遂行を第一におく将軍の父の対比。このあたりをスパイスにしてSF密室地球救出ドラマを作れば、
制作費もぐっと減少。舞台でだって上演できるかもしれない!…しかし「シカゴ」ならともかくブロードウェイ版「ザ・コア」、
どうなんでしょう。
マトリックス・リローデッド【The Matrix Reloaded】
Director: Andy & Larry Wachowski /
Cinematographer: Bill Pope (I)
ジュラシック・パークは第一作だけで次からは見ていない。恐竜のCGが凄いことがわかったら、他に期待するものが
見当らなかった。「マトリックス的映像」と呼んでもいい新しいビジュアルイメージを作り出した第一作は、確かに画期的
だった。CMやらMTVやら色々なところでパクられていた。で、この第二弾。正直言って長くて退屈だ。CGの出来も高
レベル。アクションやストーリー展開も休みない。でも2、3回眠りに落ちかけた。(昼飯の後ではあったけど)新しいもの
が何もない。エージェント・スミスやマトリックスの設計者のキャラクターを描きこんでストーリーを掘り下げるというような
手はなかったのだろうか?それともこの映画のファンは、そんなことを期待していないのだろうか?
しかしやられた!と思うのがラスト。(劇場が明るくなる前)これじゃあ次も見ないわけにはいかないじゃん。結局これは、
3時間ある予告編ということなのだろうか。ではマトリックス・レボルーションズで会おう、ってか?
X−MEN2【X2】
Director: Bryan Singer / Cinematographer:
子供向けの童話の中で、一番悲しく心に響くのが、「泣いた赤鬼」だ。村人たちに来てもらおうと、「おいしい
団子もございます。おいしいお茶もございます。」と張り紙をするが、誰も来てはくれない。そんな赤鬼のために
友人の青鬼の取った行動は、ガキの身にも痛く、切なかった。人は自分と違うものを恐れる。特にその違いが、
自分たちに勝っているときは尚更だ。(逆に明らかに自分が優位なときは、それを誇示したがる)それは程度の差
こそあれ、誰の中にもあるものだと思う。ミュータント同士でも充分起こりうる。そのときには、異端の悲しみを
互いで共有する者が出てくるかもしれない。なんか、人は悲しいなぁ、と何故かセンチに見終わったけど、面白い。
正しい第二弾という感じですね。
アバウト・シュミット【About Schmidt】
Director: Alexander Payne / Cinematographer:
James Glennon
朝8時のアポをドタキャンされて、空いた時間で駆け込んだ。10時15分の日比谷みゆき座には結構人が
入っていて、年配客の姿も多い。見ているうちに、やはりニコルソンの「プレッジ」を思い出した。さらに
「シャイニング」も。どちらも普通の人間が、些細な物事のズレから狂気に魅入られていくというサイド・
ストーリーを持っているように思える。(狂気の程度と魅入られ方は映画により異なるだろうが)その狂気の
可能性を表現するという点ではニコルソンははまり役だ。そう言えば「恋愛小説家」もそんな匂いがするなぁ。
もうひとつ思い出したのが、星新一のショート・ショート。ある男の周囲の人間が、一本の電話を受け取るや
いなや尋常ならぬ落ち込み方をして、無口になってしまう。訳を聞いても首を振るばかり。そんなことが次々
続き、不審を高めていく男。そしてついに彼の側の電話が鳴る。受話器を取るとたった一言「あなたは狂って
いる」と告げる声。そして男も口をつぐんでしまう−という話だ。(多少記憶間違いあるかも…)読んだ当時は
ピンとこなかったが、今になるとジワジワわかる気がする。狂うということは、皆がどこかで感じている恐怖
なのかもしれない。そんな恐怖の描写がきっちりしているから、こういう一見平凡なストーリーが深い感銘を
呼ぶのではないだろうか。
教訓や救いを求めて映画を見たことはないし、また今後もするつもりはないけれど、結果的にそれを得ることが
時々ある。反対に映画や書籍の広告で見かける「生きる勇気がわきました」「自分に素直になれました」のような
反響には少し首を傾げてしまう。その感動は一瞬の錯覚であって、しばらくすると再び感動や勇気を自己の外に
求めて彷徨うことになるのではないか。少なくとも、一時期の自分はそうだった。(ちょっと恥ずかしい…)
アバウト・シュミットの感想は、そんな風には口にできない。しかし胸のなかにあたたかさを持って残っていて、
ほんの少しだけ、でも確実に身になっていく感じがする。
ちなみに撮影のジェイムス・グレノンは、自分の好きな「The
West Wing」も撮っていた。へぇーっ。
*STRANGELOVE(byデッカードさん)への投稿を元にしています。
8マイル【8 Mile】
映画が終わってクレジットバックにエミネムの曲が流れているとき、それに合わせて手拍子が聞こえてきた。
あまりキレがなくて、NHKののど自慢のようだ。クレジットも終わり観客が席を立ち始めると、今度は拍手が
聞こえてきた。多分同じ奴だろう。日本の劇場では少ないけれど、それは別によいと思う。邪魔になる訳じゃ
ないし(映画にもよるけど)、知らない同士ささやかな共感を感じるのも悪くない。しかしその拍手にはどこか
慣れないことをやっている力みが感じられて、様になっていない。が、あまりそいつを笑う気にはなれない。
単に面白い映画というだけでなく、今を生きてる「魂」(この言葉も何かデフレ気味だなぁ)入ったものに
拍手を送りたい。そんなアティテュードを感じた。
この映画には、確かにある種の「魂」がある。 映画として再構成されていても、ホワイト・トラッシュという
クラスを生きることのキツさは伝わってくる。しかし実際その状況とどう戦っていくのか。その術がいきなり
エミネムのラップのスキル(これこれで素晴らしいのだが)というのでは、ジェット・リーのアクションもの
(これはこれで好きだけど)と、根本的に変わらない。最後のバトルの勝利もあっけなさ過ぎはしないか?
エミネムはなぜエミネムなのか、いかにエミネムになったのか−この部分が見えてこないと「魂」の部分が
完成しないのだ。
映画の方向性としては、ドキュメントらしくもっと抉りこむか、今は無き2パックが出演していた「ジュース」
みたいにエンターテイメントでいくか、どちらかに振り切ってもよかったかもしれない。しかしラップがネタなら、
映画自体がラップ的になれば最高だったのに。それはトーンなのか、編集なのか、演出のクセなのか(決して
ミュージックビデオみたいなことではなく)わからないけれど、絵画の中にヒップホップ的なものがあるように、
映像にもその匂いがあってもいいんじゃないだろうか。そのときは自分も、立ちあがって拍手をしようと思う。
めぐりあう時間たち【The Hours】
3大女優競演、みたいなイメージが先行しているようだけど、俺はスティーブン・ダルドリー監督の手腕に拍手を
贈りたい。複数の物語を絡ませて語っていくスタイル自体は珍しいものではないけれども、根底に流れる軸がしっ
かりしている。その軸も観念的なものではなく「自分という存在の価値に思い迷う、ある程度の人生経験を重ねた
女性」−こう書いちゃうと観念的じゃん!と突っ込まれそうだけど−というテーマを血の通った描き方で見せてく
れている。ただ何でそんな風に「自分には価値がない」的な意識を持つのかというところは敢えて描かなかったのか、
もうひとつ掴めない。これはちゃんと「ダロウェイ夫人」を読んだりその映画を見た方がよいのかもしれない。普通
こういう基礎知識要求系の映画には否定的な自分だが(この映画がそうだとは思ってない)、一回きちんと読んだり
見たりしようかなと思わせる魅力は充分にある映画です。
しかしエド・ハリス、いいねぇ。あの役(あの子だったのか、という納得感も含めて)できる親父はなかなかいな
い。ジョン・マルコビッチだと濃いしなぁ…それからメリル・ストリープのパートナーのサリー、The West Wing
(NHKがザ・ホワイトハウスのタイトルで放送)で報道官のCJをやっていアリソン・ジェニー。このドラマが大好
きだったので懐かしかった。ちょっと知的な和田アキコみたいな立ち位置の(?)いい女優さんです。(アメリカン
ビューティにもでてたっけ…)
ベッカムに恋して【Bend It Like Beckham】
いやーぁ、面白かった!と久々に素直に言えた映画。もちろん「戦場のピアニスト」の見た後の無言、と言うのとは全く意味が
違うし、お話の展開もちょっと都合よすぎない、というのもあるけど、それは今回ノープロブラム(とかいう言葉使いしてる人、
どれくらい英語できんのかね)。作り手の思い込みがまっすぐで、そういう意味での納得感につながったのだと思う。
そういったセンチメンタル・スイート・ハッピー・コメディとしての仕上がり具合のよさもともかく、サッカーシーンの見せ方も
なかなかでした。カメラワーク、アングルの切り取り(ペナルティキックの俯瞰、というのもありそうだけど新鮮)も楽しかった。
なんかプレイシーンが格好よくて、サッカーやりたい!と思ってしまった。こういうのはブルース・リー以来。そういえばこの映画、
超ポジティブな軸で作った、悪役のいない「燃えよドラゴン」のような気がしないでもないです…飛びすぎ?
ブリー【Bully】
ラリー・クラークは「キッズ」以来。あの映画でクロエ・セヴィーニに惚れてしまった(その後「ボーイズ・ドント・クライ」で
二度惚れ)のだけど、「若さ」を描くことについてのある種のヒリヒリしたリアリティは彼独自のものだ。この映画も前半のクールな
滅茶苦茶加減の描き方は、なかなか他にない。でも後半から…だるくなるんですよ。「何でそう簡単に殺すことになっちゃうわけ?」
という部分で納得しにくくて、ストーリーに入りづらくなる。知人の映画に関するサイトで、「事実にもとづいているからいいって
ことか!?」と突込みが入っていたけど、それには同感。まあ、あのヒリヒリするトーンで私は充分楽しんだけど、なんか映画として
まとめようとうしてしまったのかな…
ところで次回作(夏頃日本公開?)のシネマトグラファーは、私も一度だけ仕事したエド・ラックマン。最近では「エリン・ブロコ
ビッチ」や「バージン・スーサイド」とか。彼の艶っぽいカメラワークで見るラリー・クラークというのは、かなり楽しみではあります。
24アワー・パーティ・ピープル【24HOUR PARTY PEOPLE】
ちょっと予想と違った、真面目なトーン。シド・アンド・ナンシーとかロックンロール・スゥインドルみたいな感じを
(内容ではなく雰囲気として)イメージしていたのだが、以外に淡々とした展開。確かにネタはある種の「クレイジー」な世界に
絡んではいるのだが、映画としての捉え方がオーソドックスなのだと思う。でも当時のシーンへの誠実さとリアリティは感じた。
ビデオ向きかとも思ったが、かえってこういうのは映画館でサクッと見ておくのがいいかもしれない。(しかしサービスデーの
1,000円を逃したのは痛かった。)
サイドウォーク・オブ・ニューヨーク【Sidewalk of New York】
どっかの評に、エドワード・バーンズとウディ・アレンを比較していたものがあった。確かにセックスに異常に関心を寄せる
ニューヨーカーという切り口は似ているし、なんちゃってドキュメントな感じもそれっぽい。でも、やっぱり違うのだ。
W・アレンの神経症的語り口とこの映画のくせのない語り口はやはり別のものである。でも俺としては楽しんだ。なんたって、
住んでたイーストビレッジ周りがガンガン出てくるし、NYUの女子大生アシュレーが働いているバーにも行ったことがある。
あーっ、懐かしいぞ、ということで客観的な評価ができないけど、ある種の都会派映像作家としての才能は持っていると思う。
その道を精進していっておくんなせい、という感じだ。都会派、というと妙にすかした甘糟りり子みたいなイメージかもしれない
けれど、実はいちばん生々しさの必要な道だと思う。みんな幻想なんて持たないしね。
シカゴ【Chicago】
2003年アカデミーの中心作品。それがなければ見に行かなかったかもしれない。もともとミュージカルものには興味が
なくて、ミュージカルは舞台、野球は球場で見るもので、映画では映画的世界(で、それはなんだと問われるとちょっと
苦しい。W.アレンの「世界中がアイラブユー」やバズ・ラーマンの「ムーラン・ルージュ」は楽しく見たし...)を
味わいたいのだ。で、映画自体ですが、疲れていたせいもあるのか、正直1、2回寝そうになった。キャサリン・ゼタ・
ジョーンズもレニー・ゼルウィガーもリチャード・ギアも頑張っているのはわかったし、その芸の力自体は拍手ものだったが、
どうもスターたちの学芸会のように見えてならない。ミュージカルとの交錯した構成だからか、全般的にオーバーアクトで
あるのは狙いだろうが、どうもしっくりこない。映画としてミュージカルという素材を使い切っているかといえば、むしろ
使われてしまった感がある。
この映画に素敵なところがあるとするならば、もともと映画が持っていた、虚栄でいかがわしく魅力的な世界の匂いを携えて
いることではないだろうか。その意味では映画というも芸能へのノスタルジーはふんだんに味わうことができる。作品賞が
これで、「戦場のピアニスト」や「ボーリング・フォー・コロンバイン」が他の受賞作とすると、アメリカという国を語る上で
ある意味いいバランスかもしれない。この映画がテロやイラク戦争の前に撮られていたら、どんな評価を受けたのだろうか?
抱擁【Possession】
『この愛に狂わぬために、綴り続けた恋人たち。“私は炎の中で燃え尽きるだけです”』というキャッチフレーズからは重い
恋愛映画を想像してしまうけれど、実際はもっと軽やかな。デートで見て、その後ご飯か酒という流れにもちょうどいい頃合の
一本。そこが良くもあり、ちょっと物足りない感じでもあります。でも過去と現在をクロスオーバーさせながら二組のカップルを
描いていく手法は一歩間違えればあざとくなるのだけど、うまく踏みとどまっている演出の加減はよろしい。
グイネス・パルトロウは、こういったインテリ系美人、クールだけどお茶目でもあるという役がよくはまっている。このバランスが
彼女の魅力でもあるけれど、もう一歩つきぬけない部分なのかもしれない。でもいいけど。
ダイアナザーデイ【Die Another Day】
このシリーズにいろいろ注文つけるのは野暮ってもんだろ、とわかっていても、言わずにいられぬのがオイラの性分。ゴージャスな
荒唐無稽ぶりが魅力だったのに、どこか振り切れていない感じがする。加えて、「おマーケティング」の影がちらついて見えるのは
気のせいだろうか?
テレビ広告の効き目が疑問視され始めているアメリカでは(日本もそうだけど)テレビ番組や映画でのタイアップ的な商品露出が
どんどんビジネスとしてシステム化されている。スパイダーマンでは、飲みかけのコーラが思いっきり商品名が見やすいように置かれて
いたなぁ。まあそんな重箱的な詮索はともかく、スタッフたちも悩んでいるのではないだろうか。冷戦時代のような、単純な敵味方の構造は
もはや無く、女性の描き方もデリケート。ブロッコリー氏が「昔はよかった…」と言ったかどうかは知らないけれど、新しいボンド
シリーズのあり方が必要なのかもしれない。
女性の描き方云々なら、参考になるのはルパンV世かも、とふと思う。あれぐらい振り回される位がボンドもやりがいあるのでは?
どうも今、妙に物分りよくなっている印象がある。なんてったって「殺しのライセンス」持ってる危険人物なんだから。
Mr.
ディーズ【Mr. Deeds】
かつての「オペラハット」(Mr. Dees Gows to
Towm)のリメイクでもあるが、これは他愛のない現代のラブコメとして楽しむのが
いちばん。だけどこの、「他愛ない」という加減が結構難しい。アダム・サンドラーの魅力はこれをきちんとやれることでないだろうか。
考えてみれば、田舎育ちの純で正義感があってロマンチック、なんてキャラクターは、よっぽど周到に描かないと白々しい。計算なのか
地なのか知らないけれど、「ビッグ・ダディ」のとき同様、なんか好きになってしまう感じは他になかなかいない。
しかし東宝ニューシネマ、銀座にあってあの場末感がなんともいえません。この映画の場合、それもプラスに働いていた気がします。
戦場のピアニスト 【The Pianist】
行ったのは、木曜日の夕方4時の回。不断ならそれほど混まない時間だが、TVCMの効果なのか、自由席は列になって待たされた。
劇場内チに入ると前のほうにはまだ余裕があって満席とはいかないまでも、時間帯を考えるとまあ混んでいる方だろう。客層は比較的
年齢が高く、隣は60代の父と3、40代の息子といった感じの、映画館では珍しい組み合わせ。あとは時間のありそうなおばさま仲間が
多く、なぜか不安がよぎる。
隣の親子は終了3,40分前に席を立った。後ろのおばさん二人連れは、エンドタイトル前から鼻をぐしゅぐしゅしながら、「音楽って
国境を越えるのよね」(そういう映画か?)などと取り留めない感想を延々話続ける。あのー、まだ終わってないんですけど。
と、映画ではなく観客に馴染めないもの(帰ったことは別に見る人の自由だし、事情があったのかもしれないけど、あそこで帰ったら
映画として分かんなくない?)は感じたけれど、良い映画でした。しかし、だからこそ「戦争とは」といった社会的なテーマで語ることは
やめたいと思う。例えばユダヤ人の武装蜂起シーン。もちろん主人公の目線を意識しての演出ではあるのだろうけど、無意味なアップのない
報道映像のような淡々とした、しかしリアルな描き方。プライベートライアンの冒頭の「壮絶な」戦闘シーンとは異なるこのリアルさが、
かえって戦争の本質−命が戦略の部品として消費されること−を感じさせるのではないだろうか。もうひとつ例として、隠れていた建物に
砲撃を受けたときの効果、状況音の使い方。シンプルで「コロンブスの卵」的演出かもしれないけれど、戦闘の場に居合わせたものの不安まで
感じることのできるようなシーンだった。
シンドラーのリストを断ったポランスキーが、今この映画を撮ったのは何故だろう。私の勝手な推測では、自らこの体験をした者としての
責任ともうひとつ、映像製作者としての責任両方を満たせるだけの時間が必要だったのではないだろうか。戦争の悲惨さ、愚かさを語るのは
もちろん大切で意味あることだ。しかしそれをどのような形で見せるのか−あんなことがあった、こんなことが起こったと語るだけでなく、
きちんとそれを語ることのできる映像を作りあげること。そのために時間が必要だったとすると、そこにポランスキーの戦争体験映像作家としての
誠実さを見るような気がします。深読みかな。戦争と言うテーマでは、全く異なるアプローチではあるけれど目取真俊の芥川賞受賞作「水滴」や
マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」と比べてみるのも面白いし、意味があるとのではないだろうか。
正直言うと、この作品は「私の年間bP」になるタイプのものとはちょっと違う。しかし何か大事なことを考えさせてくれる映画として、大切にしたい
一作だ。(ベルリンのユダヤ人博物館を訪ねたときは、民族としての傷と、復讐にも似た復興へのエネルギーに圧倒された。胃袋に重い鉛を
ぶちこまれた感じで、涙なんかでない凄さだ。)
レッド・ドラゴン 【Red Dragon】
アンソニー・ホプキンス、エドワード・ノートンばかりかハーベイ・カイテルと、役者揃い。ストーリーも手堅くできていて、安心して
楽しめる作品、と言ってもいいだろう。でも、でも、ですよ、何か物足りないものが残るのは何故だろう。このシリーズは、もともと
レクター博士の強力なキャラがきっかけでシリーズ(?)になったようなものだ。(でもこれがロッキーみたいに延々続いたり、博士の
幼年時代なんてエピソードが作られちゃうと困るんだけど)それはOK。なかなか得がたいキャラだし、このキャラをもっと味わいたい、
という気持ちはあります。で、私個人として何が見たいかと言うと、博士のスーパーIQに裏付けられたヤバクてスリリングな、頭脳の
F−1みたいな世界なんです。それを実現するには、スタッフの知能が−というか性向が合ってなかったのかなぁ。念のため言っておくと、
映画としてのレベルは高いと思うし、スタッフの力量も十二分に感じた。ただ「ラッシュアワー」(1も2もこのブレット・ラトナー)とは
違うタイプのアイデアが必要だったのではないかと思う。
もしかすると、今回の犯人のキャラクターがいささか薄かったのかもしれない。何か「普通の異常者」で、見ている我々には全く異常さ、
狂気を感じさせない。その辺は「羊たちの沈黙」の犯人の、あのぞっとする感じが勝っている。惜しい。
でも、あんまり高IQ(そういえば昔三高−学歴、身長、収入−なんてあったなぁ)の話になると複雑で私にはついていけなかったり、
「ユージュアル・サスペクツ」みたいに腑に落ちない結末になるかもしれないので、まぁいいのかな。で、次回はどうなるんでしょうか。
ケミカル51 【Chemical
51】
サミュエル・L・ジャクソンとロバート・カーライル、という布陣だけで期待を膨らませてチケット買ったのだけど、見終ってみると−
というか始まって20分位すると、「アレ?」という、ちょっと嫌な予感がこみあげてきた。いまいち世界に入り込めず、役者が叫んでみたり
銃ぶっ放したりしてるうちに終了。映画のオチどころは「いっぱい食わせた」話なんだけど(あまり書くとネタばれになりますが)、期待して
見た自分がいっぱい食わされたという感じ。
「バカやるときほどマジに」というのはもの作るときの基本のひとつだと思うのだけれど、ストーリーやキャラクターをきちんと描きこんでないから、
ストーリーが滑っている。サミュエル先輩がキルトのスカート穿くのもよし。でも俺は、下ごしらえをちゃんとした、プロの「荒唐無稽」が見たかった
のに。
ボーン・アイデンティティ 【The
Bourne Identity】
監督のダグ・リーマンは、少しヒッチコックを見たほうがいいのでは。例えば逃亡シーンをスリリングにするのは物理的状況
(高いビルの上にいるとか、追っ手に挟まれたとか)ではなく、登場人物の緊迫感と危機を回避するためのアイデアの冴え
にあるはずだ。マット・デイモンがアメリカ大使館の建物から外の壁沿いに脱出するシーンは、もう少し工夫できなかったの
だろうか。リアルと言えばそうだけど…でも街中でのカーチェイスはちょっと好きでしたが。
何故なんだろう。もしかすると企画にあたって背広組(映画会社のマーケッターとか)の意見が強かったのだろうか。ストーリー
の表層だけをカメラで撮ったような展開には、映画に愛のない人間の干渉を感じてしまう。考えすぎかもしれないけど。そういう
意味では、このストーリーの要素のひとつである「影なる力の存在」というものを強く感じる仕上がりかも。(意味するところは違う
けど)
※後日あるサイトで、「特殊技術に頼らないアクションがよかった」というコメントがあったけど、そういう見方、感じ方もあるのかと
思った。面白いもんですね。
ボウリング・フォー・コロンバイン 【Bowling for
Columbine】
上映を待っていたらターザン山本(元週刊プロレス編集長、現在はプロレス評論およびプロデューサーといったところ?)
がいた、というのはさておき−考えてみたらミニシアター系はセレブ(?)との遭遇度は高いかも。
で、本題。素晴らしい作品です。が、これを「映画」と素直に呼んでもいいのかという疑問が。かといって「ドキュメント」とも
しっくりこない。じぁ何かと言われたら、単純に「フィルム」というのがしっくりくる。(フィルム、ビデオの区分じゃなくて)どうし
ても気になることがあって、「なぜ?」と聞くかわりにカメラを回しているようなまっすぐさ。これがこのフィルムの快感ポイント
だと思う。もちろん無邪気な好奇心とバイタリティだけで作られたものではなく、ちゃんと見せ方の計算もされている。その
バランスは映像作品というより、良質のポップミュージックのようなテンポで、確かに見た後のスカッとした感覚はロックンロ
ールに近いかもしれない。最後に内容について。ここで取り上げられていることは、ある程度アメリカ社会に興味をもって
いる人にとってはさほど目新しいものではないと思う。しかしそれを実際カメラ持って行って、相手と話して、そのままごろっと
見せてくれるという意味では、今までなかったものだ。新聞の社説が飲み屋のテーブルに降りてきた感じ?凄くおすすめです。
しかし、誰か日本版撮らないかなぁ。
マイノリティ・リポート 【Minority Report】
意外に面白かった、というのが映画が終わったときの正直な感想。しかしスピルバーグはいい人なのだなぁ。ああいう
タイムパラドックス絡みでは、最後に観客を裏切る何かがあっていいと思うのだけど、そこで意地悪くなれなかった感が
残ります。トム・クルーズはそれほど好きな役者ではないけれど、ああいうフィクションで役割としてのリアリティを必要と
しない役は向いているのではないだろうか。ひたすら「タイムコップを熱演するトム」でいればいいのだから。(嫌味では
ないです。そうするだけのキャラがない役者にはできないことだし)
ギャング・オブ・ニューヨーク 【Gang of New York】
しばらく前にスコセッシ初の長編(1968位?)をWOWOWで見たけれど、約2時間ほどのモノクロ映画で学生映画の
匂いがぷんぷんするものだった。H・カイテルも出てます。何と言うかあんまり演出的なセンスはあまり感じないけれど、
妙に熱はある。それがスコセッシという監督なのかもしれない、とこの映画であらためて思いました。
例えれば、最近にしては珍しくマジで熱い話をする兄ちゃんに会い、最初はちょっとひきながら話を聞いていたら、
その内容に感動してしまった、というような感じだろうか。もしかしたらスコセッシは映像トーンとか編集とかセンスとか
より、素材のパワーと、そこに込めた自分の情念で勝負する、築地の近辺のマグロ丼の店みたいなものかもしれない。
ただどうしてディカプリオなのか…(それ致命的な感じなんだけど)
[ビデオ、旧作はこちら]
黒い十人の女【1961】
Director: 市川 崑 / Cinematographer: 小林 節雄
これも俺にとっては「見よう見ようと思って早幾年」の一本。ふーっ。「スタイリッシュな映像」というフレーズとともに語られることが多いが、確かに暗くシャープな映像は独特のテンションを持っている。映像だけでなく台詞やカットのテンポ感や、芥川也寸志の手による犯罪の香り漂う音楽には「日本のフィルム・ノワール」(あまり詳しくないのでボロが出るか…)と言えそうなスタイルがある。興味深いのは、そのモダンさと昭和30年代の日本的情緒が並存していることだ。今見ても格好のいい映像世界と、「女性の幸せっていうのは…」的な台詞ににじむ時代の価値観(映画の前にポリティカル・コレクト的な注釈が入るのだが)。的確に時代を捉えた表現が、逆に時代を超えるということの良い見本だ。ただこの映画の弱点は、その格好の良いスタイリッシュさにある気ようながする。映像に存在感のある女優たち。船越英二は存在感のない「ただの二枚目」に見えるところがまたはまっている。しかし意外に奥行きがない。gooの解説には「テレビ界を舞台にした人間が人間でありたいというノスタルジーの物語」と書かれているが、そういう風には感じられないんだけどね。
マトリックス【The Matrix / 1999】
Director: Andy & Larry Wachowski / Cinematographer: Bill Pope
一度見ているのだけどそのときは英語版。お恥ずかしい話だけど、細かいところまで追いきれてなかった。今回字幕付きで見て
マトリックスの概念もよくわかり、なかなか楽しめた。いやー、面白かった、って今頃言ってどーするという気もするが、よく出来て
いるのはその世界観。人類とコンピューターの対立など昔からあったのだけど、その対立がエネルギーの供給と仮想現実の提供と
いうある意味での「共存」であることも優れている。うがった見方をすると、サラリーマンの会社人生は本当にリアル・ワールドなのか、
とかね。リローデッドを有料の予告編としてダメ出ししちゃったけど、もう一回見たくなった。ただやっぱり第一作の手作り感(役者達が
自分でやっているアクションとか)が失せてしまった部分はあったはず。でも見た方がいいかも。もうすぐレボルーション始まるし。
タイタニック 【Lifeboat / 1997】
Director: James Cameron/ Cinematographer: Russel Carpenter
ついに見ちゃいました。このまま一生見ないかも、とも思ったけれどやっぱ一回はね。で、意外に普通に楽しめた。まあ今見て
どうこう言うものでもないだろうけど。しかしケイト・ウインスレットは美人さんではあるけれど、妙にごつくて気持ちが入っていか
ない。昔「天井桟敷」のアルレッティにも、絶世の美女の割には年齢や容姿がどうかというコメントを聞いたが、それは大丈夫
だったのに。なんだか豪勢な学芸会のような一本ではあった。
救命艇 【Lifeboat / 1944】
Director: Alfred Hitchcock / Cinematographer: Glen MacWilliams
「初期ヒッチコックの実験的作品」というフ文句に惹かれて見た。しかし実験と言うよりも、もうすでに立派なヒッチコックもの。
心理描写はまだ普通であるが、密室ドラマ(遭難した救命艇はまぎれもなく密室だ)としての構造はしっかりしている。実験作と
言うより習作という印象だ。
バイオハザード 【Resident Evil / 2002】
Director: Paul W.S. Anderson / Cinematographer: David Johnson
この映画の広告を何度も劇場で見て気になっていた。音楽もカッコよくて。じゃあ行けよ、というところだが他のものと比べて是非
劇場で、という気にはならなかったのだ。もとはゲームだしなという偏見もあって。で、見てみるとそれなりに面白い。事件の謎や
展開は途中で大体読めてきたが、それはさほど問題ではなかった。ミラ・ジョノボビッチの控えめな―というかああいう風にしか
出来なかったという気もするが―立ち方も合っている。もう1回見るかと聞かれたら?ではあるが、色使いなどもスタイリッシュで
楽しゅうございました。マリリン・マンソンも曲を書いているが、この映画にはあっている。「マトリックス・リローデッド」にも曲を提供
していて、この人演劇的でサントラにはかなりいいミュージシャンではないだろうか。
ピンポン
Director: 曽利文彦 / Cinematographer:
やっと見ました。テレビ放映の録画なんで偉そうなこと言えないけど、曇りときどき晴れ、みたいな印象が残る。役者はそれぞれ
きちんとやっているのだけど、映画全体としての太い流れがもうひとつ可愛らしくなっちゃっている。この映画単品というより状況
(原作の人気、窪塚洋介ら話題のキャスト)を活かしたプロモーションの上手さの結果が出たという感じだ。それはそれでいいん
だけど、どうして公式サイトにシネマトグラファーの名前が載ってないのだ?
オープン・ユア・アイズ 【Abre Los Ojos / 1997】
Director: Alejandro Amenabar / Cinematographer: Hans Burman
「バニラ・スカイ」のオリジナルというのは知っていたが見る機会がなかった。トム・クルーズがダメな俺は(どうしてもIQが
カモノハシ程度に思えて映画に入っていけない)それなりに楽しんでは見たが、まあザ・いまいちな一作だった印象だ。
しかしこれは凄い。ジェットコースター・ムービーという言葉は本来こういう映画に対して使われるものではないのだが、
感情を両手でつかまれてゆさゆさ揺らされたという点では富士急ハイランド級(乗ったことあったっけ?)だ。名作といっても
いい。しかし先日見た「トーク・トゥ・ハー」といいスペイン映画は結構強力だ。絵作りはある種ヨーロッパの絵画的な美しさを
持ちながら、過度なまでにエモーショナルだ。言葉のリズムもいい…そう考えて、そこには日本映画へのヒントがあるのでは
ないかと思った。ダメになっているのは、自分たちが持っている魅力を忘れているのではないだろうか。
リトル・ダンサー 【Billy Elliot / 2000】
Director: Stephen Daldry / Cinematographer:
Brian Tufano
「めぐりあう時間たち」(しかし邦題もうちょっと何とか…)スティーブン・ダルドリーの初監督映画であり、「ベッカムに
恋して」(この邦題も?だけど、これは許しちゃう)と並列で好きな人間が多い(www.imdb.comのレビューに多数)
ことで「これは見なくちゃ」リストのひとつ。期待が大きかったせいか、ストーリーテリングにはまだ未熟さを感じるなぁ、
とか見ていたら、決めのシーンの心理描写の上手いこと!舞台での経験が生きているのか、彼の才能か。主演の
ビリーのダンスにも感嘆したし映像もきれいだし、素晴らしい一本。今後もこの監督、注目です。
波止場 【On The
Waterfront / 1954】
Director: Elia Kazan / Cinematographer: Boris
Kaufman
俺の「一応見ておかなければ」シリーズ中の一作。一応というのは失礼なのかもしれないが、それ程思い入れは
ない、ということ。しかしモノクロの締まった映像(撮影のカウフマンは「12人の怒れる男」も撮っている)やマーロン・
ブランドの存在感は今でもワクワクできるもので、一気に(ビデオを止めずに、という意味です)見てしまった。が、
しかし映画として古いなぁという感はぬぐえない。人物描写の荒っぽさ−例えば急に正義感に燃える神父−などは
もっと肌理の細かさが欲しいところ。何かひとつエピソードがあるだけで違うのに−といって半世紀前の映画に文句
つけても仕様がないけど−と感じる。いわゆる「赤狩り」の後で、この頃のエリア・カザンはマッカーシズムを強く意識
して(と言うかせざるを得なかったのだろうが)映画を撮っていたと言われるが、それがどのように影響しているのか。
X−Men 【X-Men / 2000】
X-2に行く前に見ておいたほうがいいかなと思ってテレビで録画。しかし英語で見たので細かいところがちょっと
不明だった(情けなや…)が、退屈しなかった。竹宮恵子の「地球へ(テラへ)」を思い出す。ミュータントの境遇
というモチーフは、実は異端者の悲哀と読めちゃうのだが、ここが深くなっていくと面白そう。さあ、早く2見るぞ!
ラブリー・オールドマン ‐ 釣り大将Love Love 【Grumpiest Old Men / 1994】
ジャック・レモンもウォルター・マッソーも今は亡き名役者たち。映画の出来としてはかなり甘いけれど、彼らの
勇姿を楽しみたい。94年の作品だけにふたりともマジでおじいちゃんだけど、こういう風に死ぬまで身の丈で役者を
やれるというのは幸せなことなのかもしれない。
袋小路の男(群像12月号) 【絲山秋子】
大人っぽくどこか不良な高校の一年先輩「あなた」を、誰かの後をついて歩く子どものように見つめ続ける女性。続編を読みたくなるストーリーとキャラクターだ。この人の小説はどこかピュアで切ない。ウブな文学少女のナイーブさでも不良のピュア・ハート的なもの(?)でもなく、ごく普通の、でもしっかり自分のある女性の心のコアのようなものを感じる。非凡な普通さ、というか。
親指Pの修行時代 【松浦理英子】
どこかずっと気になっていた小説。発表当時、何故か男性作家、評論家諸氏が激賞していた記憶がある。一方松浦氏の作品はフェミニズムを語る題材として取り上げられることもあるのか、ウェブ上で検索すると幾つかそういった視点で書かれたものを目にすることもある。
しかしこれは小説なのだ。セクシュアルな題材が取り上げられているからといって、即ジェンダー論議に持っていくのはいささか単純に思えてならない。(全ての小説をその視点で捉えてみるというのは理解できるのだが)だって今読んだらどーってことないでしょ。猥褻なジョークで罪に問われ、裁判中にドラッグの過剰摂取が元で66年死んだアメリカのスタンダップ・コメディアン、レニー・ブルースが今頃死後の恩赦を受けたが各メディアは「今聞けば何でもないジョーク」とコメントしている。物の本質は、ネタの過激さよりもそれが語られる背景にあるのだ。そういう意味で「親指P
」は得もしているし損もしている。
どーなのかな、俺には一種の(毛色の変わった)ファンタジー小説のように思えたけれど。「フラワー・ショー」の出現あたりから話はどんどん独自の方向に走り始める。セックスが出てきたぐらいで目の色変えるなよインテリさん、という気分を持ちつつ小説自体は面白く読んだ。
Who Moved My Cheese? 【Dr. Spencer Johnson】
「チーズはどこへいった?」の原書。文章もやさしく、量もそれほど多くないので英語の教材にはいいかもしれない。でもこれが人生の教材つーのはいかがなものか、である。「変化を敏感に感じ取り、それに対応していくことを楽しむ」という考え方自体は結構なのだけど、何か大事なことが忘れられている気がする。
と言ってもそれはこの本に限った印象ではなく、この手の生き方、自己啓発系の書籍全般に感じること。玉石混合ではあるけれど、ベストセラーといわれるものは確かによくまとまっている。「気の利いたフレーズ」に満ちていて、実際感心させられることも多々あるわけで。(「七つの習慣」とか上手いフレーズが結構あった)しかしそうまでして目指すゴールは何なのか。「上手に生きること」と「人生の意味」の間を埋めるものは何なのか。
この手のノウハウ本の中で、「金持ちになって社会に貢献したい」という希望に対して相反するふたつのコメントを見つけた。ひとつは「まず稼いで、それから寄付なりボランティアなりやる。今そんなことを言っているのは現実が見えていない」という答。もうひとつは「今お金がなかったら、10円でもいいからできるだけのことをする。社会還元の精神は所持金によるのではない」という考え方。自分なら後者を取る。俺は「衣食足りて礼節を知る」という言葉は支持しない。社会貢献なり自分の夢なり、状況に関らず持ち続けているものが本当だと思っている。あ、しかし話が外れてきたかな?「チーズはどこへいった?」はどこへ行っちゃったんでしょう。
黒澤明 音と映像 【西村雄一郎】
西村氏の肩書きは映画評論家となっているが、氏自身も映像ディレクターの経歴を持つ「製作者」でもある。氏の著作「映画に学ぶビデオ術」には具体的な映像テクニックの狙いと効果がわかりやすく説明されていて、例として取り上げた映画が見たくなる。視点の変わった映画ガイドとも言えるだろう。
その西村氏が学生時代から一貫して探求してきた(投書は卒論のテーマだった)、黒澤映画における音の役割をさまざまな資料やインタビューも元に構成したものだ。黒澤が思うように映画を取れなかった時代、学生の西村氏が偶然映画館で黒澤に出くわしてビアホールで映画について語ったドラマチックなエピソードも加わって、人間的でありながら明解で分厚く著作に仕上がっている。力作!としか言いようがない。感服の一言。物語としても技術文献としても読める。映画マニアを自認するあなたなら(誰だよ?)必読の一冊でございます。
Flowers For Algernon 【Daniel Keyes】
「アルジャーノンに花束を」には59年に書かれた中篇と、その後筆を加えて66年に発表された長編があるそうだ。これは後者の英語版。それほど難しい文章ではないが、やはり一冊読んでいると時々ボーッと読み飛ばしてしまうので、著者が言葉に込めた思いの全てをわかっているわけではないはず。しかし主人公のチャーリーには充分感情移入できた。
彼が多少IQの低い青年から天才へ、そしてまた元へと戻っていく様子を人間の加齢(ボケ等も含め)になぞらえて「あなたの中のチャーリー」という読み方をしたがる向きもあるようだ。それを100%否定するわけではないが、いささか表面的だと思う。知能が変化しようがチャーリーの関心や心配は常に同じだ。「自分を知りたい。人に愛されたい」という思いをIQの変化というフレームにのせて語ったことがこの小説の肝であり、その思いを感じない限りこの作品はある不幸な人のお話になってしまう。
「アルジャーノン」はある種批評不可能、というかその外にある存在だ。(「星の王子様」も近いかもしれない)小説として評価するというより、過剰で勘違な分析をせずに素直に一度読んでおこう、という一冊なのかもしれない。
第七障害(文學界9月号) 海の仙人(新潮12月号) 【絲山秋子】
この人の文章には惹かれる。今回読んだ二作は「イッツ・オンリー・トーク」とやや趣が違って最初は?と思ったが、ピッチングでいうと「変化球だけじゃなくて真っ直ぐも結構いけるのよ、アタシ」(誰?)っていう感じだろうか。球筋はなかなか素直。
故黒澤明監督が「明治という時代の明るさが描けないと姿三四郎の性格は表現できない」というようなコメントをいつぞや述べていたが、背景にある空気がきちんと描けないと物語は語れない、というのは小説も同じだと思う。「第七障害」や「海の仙人」で描かれている山や海のある町の空気は、最近の作家には書けない人が結構いるのではないだろうか。別に紀行文を書けというわけじゃないけど、自己の外にあるものを書いて内なるものに行き着くというのは文学の楽しみのひとつだと思う。保坂和志も風景を書けって言ってるし。
面白いなと思ったのは「ゴッドヒップ」や「ファンタジー」という存在。話の展開、具体的に何かをするわけではないのだが、彼らの存在なしにはこれらの小説は成立しない。そういったこの世のものではない存在と、生身の男や女が織りなす話の構造にはどこか相通じるものを感じる。一気に、気持ちよく読んだ。でもまだ、これがこの人のVERY BESTでもないと思う。今度は変化球も織り交ぜたやつ、読んでみたい。
一億三千万人のための小説教室 【高橋源一郎】
昔、「源一郎」と聞くと思い出したのはプロレスラーの天龍源一郎だった。しかしこっちの源ちゃんもなかなかやるな、と思わされたのがこの一冊である。実はちょっと前に読んだ保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」の中で「作家の視点で書かれている数少ない小説作法本」と紹介されていたので気になっていたのだ。こちらは保坂氏のものとは多少異なる視点を持っていて、また毒気もそれなりに含んでいるのだが、「小説ラブ」(原型は武藤敬二のプロレスラブだが)という点では同じ土台に立っていると言ってもいいだろう。ただ保坂版のまっとうさに比べると、やはり源ちゃん節が炸裂していて、「小説とは君がいかに世の中を見るかということなのだ」というところまでほぼ行き着いている。なんか気持ちよくラッパ吹いたね、という感じの一冊。保坂版もこちらも、小説が好きなら(書く気はなくても)お勧めできる。
泣き虫 【金子達仁】
格闘界に一石を投じたとして話題になっている元プロレスラー高田伸彦の自伝的一冊。この手の出版物には幾つかパターンがある。情念系(俺の生き様を見ろ!)、暴露系(あの件は実は裏で云々)、社会派系(当時の世相を反映した闘い…)等いろいろ分かれるところだが、「泣き虫」の場合はそのどれにもピタリとはまらない。ライターの金子氏はサッカーを中心としたスポーツライターで多くの雑誌に連載を持っているが、格闘技にはほとんど素人とのこと。これが良かったのかもしれない。俺は格闘技ジャーナリズムへの偏見を持っているわけでもなく、むしろ低賃金重労働でも格闘技を愛して書き続ける人たちをリスペクトしてやまない。しかしその質にばらつきがあるのは事実で、特に客観性という点においてはジャーナリズムというよりも文章のうまいファンの感想文という趣が強いことも多々ある。金子氏の文体は、簡潔ではあるがミネラルウォーターのようなクリーンさで、高田自身が望んでいたイメージに近いのではないだろうか。
では高田が望んでいたことは何か?それは自分を取り巻いていた状況の正確な理解だろう。これを読んでいる途中、俺は高田に怒りを感じていた。なんて優柔不断で世間知らずなんだと。そのことは高田という人間の純な性格を物語るもので、それ自体を批判する気はない。しかし団体の長となっても相変らずのお人よしぶりは、それこそ無責任と言われても仕方ないものだろう。でも、本の最後でなんとなく許してしまいそうになるのだ。それはあまりにありのままで、正直に全部話されてた暁には起こる気もなくなり、さらには「大変だったんだね、あんた」というシンパシーまで湧き起こってくる。そこには「素直に包み隠すことなく語る」印象を与える文体による部分が大きいと思う。そういう意味ではいままでの格闘家の自伝本というよりも、ナンバーの特集に近い。
しかしこの印象も曲者ではある。従来のプロレス(Uインターも含む)と違ってプライドは真剣勝負であるかのような記述には、個人的に疑問がある。出場者やマッチメイク等、いま総合格闘技ではトップクラスのイベントであることは充分認めるし、自分自身毎回の試合を楽しみにしている一ファンでもある。穿った見方をすれば、この本は高田のこれまでを振り返ると共に、今後の活動のための援護射撃のように見えなくもない。そんなマーケティング的憶測も含めて興味深い一冊ではある。最初にこの本は従来の格闘技ものと少し違うと書いたが、性格に言うとこれは「格闘技業界もの」というべきかもしれない。まあ、読むなら今が旬だ。
殺意に招かれた夜 【イーサン・ブラック (IRRESISTABLE by Ethan Black) 加賀山卓朗訳】
ニューヨークを舞台に起こった猟奇な連続殺人事件を富豪の刑事、コンラッド・フートが解決していくミステリー。シリーズものでこれは2作目らしい。ページターナーとしての力量は存分に発揮させられていて気持ちよく読むことができた。作中に出てくるマンハッタンの街、特にビレッジ近辺のダウンタウンエリアは馴染みのある辺りで、イメージをはっきり持ちながら読めたのも良かったのかもしれない。よくできたミステリーである。ただあくまでもそのジャンルのど真ん中にあって、予想しなかった感情移入を起こさせられる、というものはない。多分その辺は、外側からきちんと固められていった人物造形にあるのだろう。著者は新聞記者出身だそうだが、その手際のいいペンさばき(ペンで書いてはいないと思うけど)に少々の破綻があれば面白いのに…と望むのは、まあお門違いなのだろうか。訳はすっきりとした文章で、内容とよく合っていると思う。何だか料理とワインの関係みたいだけれど、そういうところが翻訳にもそういうところがあるのかもしれない。
書きあぐねている人のための小説入門【保坂和志】
保坂和志は小説という表現形態に対して非常に意識的な作家だと思う。その彼自身の手による小説入門。まずタイトルが秀逸である。「書きあぐねている」というフレーズに、「俺もちょっと小説とか書いてみようかな」という作家ワナビーのほとんどが引っかかったたのではないか。そう、小説とは「書きあぐねる」ものなのだ。誰しも面白いテーマとかキャラクターは持っている。(少なくとも書いてみようかなどと考える人間は)しかし小説とはその先に、または全く違う角度にあるものだということがよくわかる。実はこの本で保坂氏が述べているのは小説というものの可能性だと思う。ただしそれは小説の「あるべき論」ではなく、小説が生きた表現形態として―フォーマットの中で洗練を重ねていく伝統芸能ではなく―残っていくためのサバイバル観のようでもある。氏は小説の未来に対して決して楽観的ではない。その可能性をワナビーたちと共有することで新しい地平が開ければいいと考えているのだと思う。まっすぐ目を見て、ではなく脇でぶつぶつ忠告をつぶやかれているような印象もあるが、その人の良い頑固親父(氏自身が人が良いとは思わないが)的語り口に味がある。書く人も書かない人も楽しめる一冊だ。しかしこれが重版重ねて売れているというのは、作家人気なのか、潜在ワナビーの多さなのか。ある文芸誌の新人賞募集では発行部数より応募数の方が上回っていたそうだから、読者より投稿者の方が多いことになるが、小説は今どこに向かっているのだろう。
トロイの木馬【冷泉彰彦】
今回この本についてコメントする資格は自分にはないのかもしれない。というのは、文字通り最初の1、2ページしか読んでないからだ。なんで?だって読めないっすよ。のっけから始まる劇的なまでに陳腐な文章。
どの地下鉄の出口からも、厚手のトレンチコートと手袋で武装した男女が、ひっきりなしに吐き出されてくる。追い立てられているような足取りで、それぞれの摩天楼に吸い込まれてゆく流れは、完全に一つのペースに支配されている。歩道から吹き上げる蒸気の湯気も、イエロー・キャブのクラクションも、それを煽っているかのようだ。ペースに乗って機械的に歩いている人々の顔に、表情はない。
これがどこであれ(マンハッタンとのことだが)街と人間をこんな風にしか書けないのなら小説なんて止めた方がいい。他にも唐突に現れる「憎っくきファックス」のような意味不明の(というか言いたいことはわかるんだけど)ワーディングや頭で考えたような会話は鳥肌ものだ。最後まで読んでから批評しろ―それはごもっとも。しかし鮨屋に入って職人がコロンをプンプンさせ、合間にカウンターで煙草を吸っていたら食べる気になるだろうか。物事には大原則、というものがあるのだ。文章が上手いことは大して重要なことではない。しかし文章は作家の視線を反映するものであり、上手い下手でなくそこに見える書き手のものの見方は小説の質を大きく左右するはずだ。
著者はニュージャージ在住で小説の他にもウェブサイトでの執筆活動などを行っているらしい。海外に住むことで不断我々が持ち得ない視点を提供してくれることは事実であるし、その価値はきちんと受けとめたい。しかし違う目線を持っていることと、そこから生み出されるもののレベルは別だ。どこに住んでいようが表面的な目新しさではなくものの本質で判断がされる、それがホントのグローバル化、つーもんではないだろうか。
神様【川上弘美】
著者が初めて書いた「神様」を含む短編集。毎日寝る前になんか飲みながら数編ずつ読んだのだが、その状況にこれほどはまる本を、私はなかなか他に知らない。翻訳文みたいだけど。筋の通った不思議ちゃん、と言うと語弊があるかもしれない。不思議ちゃんというのは往々にして計算されたナルシストの側面があって、彼女はそんな粗末な生き物ではない。きちんと醒めていて、空想ではあるが幻想ではない。村上春樹の不思議系短編が女性によって書かれるとこうなるという感じ。俺は小説に限らず、モノづくりにおいての男女の差なんて殆どないと思っていて「女の視点」とか「男の考え方」とかいう分け方を軽んじているのだが、こういうのはちょっと書けないかもしれない。コスミスミコの出てくる「クリスマス」とか最高だしね。
乳房【伊集院静】
はるか20年ほど前の大学時代、仏文の教授で奥さんは元教え子の女子大生という人がいた。ただのダメ学生の自分にも熱心でとても優秀な先生であることはわかったが、(仏文関係者なら名前を聞けばわかるだろう)外見やクールな語り口から「女子大生を惚れさせたダンディ教授」とうい極めてレベルの低いイメージが教室内に潜んでいた。はっきり言って恥ずかしい。伊集院静を「夏目雅子の夫」として語るのもそれに近いことかもしれない。しかし彼女が惚れ込んだ男(ファンではなかったが、一般論としてのいい男像は結構気になる)という目線はなかなか頭から消えない。男としては全然進歩してないのかもしれんなぁ。
で、この小説、その文章が上手いのである。まあ直木賞作家なのだから言うまでもないかもしれない。以前渡辺貞夫がチャリティコンサートの終了後、演奏に感銘した老婦人に「あんた上手に吹くねぇ」と言われて困惑した話を聞いたが、そんなもんかもしれない。しかし伊集院氏の場合、この上手さが大きな意味を持っているのではないだろうか。意地の悪い見方をすれば、描かれている話はどこかの酒場で語られているような(まず殆どが感傷過多の酔っ払い話だが)切なく他愛のないものだ。しかしその語り口の魅力がそれを非凡なものにしている。「メニューを読むだけで人を泣かせる」と言われた役者はポール・ニューマンだったか、語り口も立派な作家の芸(もちろんいい意味での)であり、ホントに「大人の小説」である。君も一度は読んだ方がいいゾ。
でも今読みたいものはこれではない。本を読むことも一種の旅のようなものだと自分は思っていて、とするとこの小説は故郷に帰るような一冊だ。人間いい加減年を取ると故郷と言ったって心やすらぐばかりの場所ではないが、その苦味の中にふんわりと浸れるあたたかさは他の場所にはないものだろう。しかしまだまだ行きたい、見たいところがたくさんある。帰省はまた先の楽しみ、というところだ。もしかしたら大学時代全然勉強しなかった仏文の教授の本を読んでみるのもいいかもしれない。自分にとっては、新しい旅のひとつになるはずだ。
ペイデイ!!! 【山田詠美】
ロックンロールミシン 【鈴木清剛】
何がどうして & テレビ消灯時間2 【ナンシー関】
On Writing -A Memoir of the Craft- 【Stephen King / スティーブン・キング】
いちげんさん 【デビット・ゾペティ】
あ・うん 【向田邦子】
サービスの達人 【中谷彰宏】
何様のつもり 【ナンシー関】
沈黙博物館 【小川洋子】
芥川賞全集 ―十五― 【文藝春秋社】
猫に時間の流れる 【保坂和志】
プレーンソング 【保坂和志】
ネコババのいる町で 【瀧澤美恵子】
山ん中の獅見朋成雄(しみともなるお) 【舞城王太郎】
阿修羅ガール 【舞城王太郎】
カンバセイション ピース 【保坂和志】
博士の愛した数式 【小川洋子】
ユダヤ人大富豪の教え 【本田健】
前項の「金持ち父さん」といい、ひと儲け企んでるのかと思われるかもしれないが−まあ、金があるのに越したことはないけれど−
どちらかと言うとこういうジャンルも結構面白いと気づいて読んでみたというところ。新聞広告の「こういう本で初めて泣いた」という
読者のコメントが気になっていたのだが、なるほど実際これはよく出来た「お話」である。嘘だとか作りごとだとか言うのではない。
書かれている内容は筋が通っている。それが「夢見る若者と功成り遂げた老人の、儲け方を通じての心の交流」というフレームに
うまくはまっている。経済小説、企業小説というジャンルがあるが、この本は組織に属さない「独立・起業・成功小説」(あまりキレの
いいネーミングじゃないな…どなたかアイデアを)と位置づけられなくもない。そのうち「起業家・島耕作」みたいな漫画も出るだろう。
しかしビジネスを語って本が売れ、それがまたビジネスになるというおいしい仕組み、やっぱり勢いがあるというのは強いものだなぁ。
(立ち読みで済ませちゃったので、自分自身は貢献してませんが)最後に、アマゾンブックスなどの書評では「マーク・フィシャーの
『成功の掟』のパクリである」等のコメントが多々あったことを付け加えておきます。この手の本って結局既存のノウハウを、手を変え
品を変え、口当たりを良くして何度も商売している、という感は拭いきれないけど、「ビジネス本のリミックス」としては良いアレンジで
仕上がりました、という感じだろうか。
Rich
Dad, Poor Dad 【Robert Kiyosaki】
ご存知(?)「金持ち父さん」の原書版。最初は全く興味がなくて、英語の副読本として手に取ったような感じだったが(シンプルで
読みやすい文章なのでお薦めです)なかなか面白かった。著者の提唱する「財産を作って若くして引退」というビジョンに賛同する
わけではないが、富を作るための発想の転換やプランを実行に移すチャレンジ精神は他のジャンルでも充分使えるなと感じた。
もちろん「マクドナルドはハンバーガービジネスではなく不動産である」「貧乏人は金のために働き、金持ちは金を自分のために働か
せる」といった逆転の発想的語り口はこの手の啓発、ノウハウ本の持つフォーマット通りで、何か根本的に新しいものがあるというわけ
ではない。しかし物事をシンプルに、具体的に語っていこうとする指向性は今の世の中に必要なものではないだろうか。日本がどの
ような道を歩んでいくかはともかく、やたら精神論や高みからの分析だけでは解決は見えてこない。
最近ある種の起業ブームの存在を感じるが、それに関する出版物には何処か鼻につくものがある。常識にとらわれないビジネス論の
なかに、慇懃無礼な成功自慢がちらほら顔をのぞかせる感じだ。それに比べてこのRich Dadは、言語の違いという点もあるのだろうが、
金儲けに対してここまでオープンにでられると妙な抵抗感は感じないのだ。それってやっぱり金持ちの余裕が行間に出てるってこと?
百年の孤独
【Cien Anos De Soledad by G.Garcia Marquez 鼓 直(つづみ・ただし)訳】
ノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの代表作。同名の焼酎を飲んで読んだ…わけではないのだが、
最初は話が全然わからなかった。第一名前が覚えにくいうえに子孫に同じ名前をつけたりするから(この辺りが名前とか個と
いうものへの民族によるコンセプトの違いがあるように思える。大昔の一郎、二郎なんてある種の記号のようだし)何が何だか
さっぱりつかめなかった。いろいろ書評を読んでいると「ぐいぐい引き込まれて一気に読んだ。面白い!」という勢いのある
コメントが多々見受けられるのだけど、それは俺の読解力のせいだろうか。
しかし、でも面白かったのだ。話の細部はすっとんでいるかもしれないが(著者自身も後で42の矛盾に気づいたと語っていた
そうだが)、それでも濃くて熱い(というか暑苦しい)生命力、業の流れに徐々に引き込まれてしまった。そこが凄いことなんだろう。
趣はかなり異なるが、ブコウスキーに引かれるあの感じを思い出した。
我が家のトトロ
【舞嬢王太郎】
新潮6月号掲載。「阿修羅ガール」で三島由紀夫賞を受賞した著者の短編。この人の文章は初めてだったが、なるほど
上手い。若い(というか幼くもある)のだが、それが下手さや未熟さには結びついていないのは才能なのだろう。少なくとも
吉村萬壱氏よりもテクはある感じだ。小説自体は、ある日ふと天啓を得たかのように脳外科医を目指す元優秀なコピー
ライターの妻と娘と猫と元同僚などを巡る話。一見他愛ない話の中に織りこめられた不思議な展開は、読みやすい文体と
相まって惹きつけられる。最初はお手並み拝見(エラソーだね、しかし…)という感じだったが数ページ後ただの読者と化して
いた。なかなか面白い。しかし…結末での急な失速は何だ?小論文のテストで、時間が足りなくなって慌ててまとめたような
終わり方。狙いなのか(と言われてもやっぱダメだと思うけど、これじゃ)本当に締め切り等で時間がきつかったのか。出版界の
ことはよくわからないけれど、こういうとき編集者は何とかしないのだろうか。(ところで広告界のことを言えば、辞めると言った
くらいで殴る社長なんて、今どきあまりいないと思うよ。)
ハリガネムシ
【吉村萬壱】
この人の文學界新人賞受賞作「クチュクチュバーン」は面白かった。以降似たような不条理系−カフカの「変身」を
エンターテイメント味で油っこく仕上げたような−の応募作が増えたそうだが、この「素直に描かれた不条理」の
どろどろなのに透明な完成度には及ばないようだ。考えて書いちゃいかんのだろう。
で、この「ハリガネムシ」は第129回の芥川賞受賞作。うーん、「平凡な男にひそむ暴力」なのかもしれないが、
どこか頭で書いた匂いがする。様式化したへビィメタルのような、フレームがいつの間にかコンセプトに昇格した
感じだ。それじゃ「クチュクチュバーン」の後追いと変わらないんじゃないだろうか。
著者はインタビュー等でも語っているように、小説と言うものに対してかなり真面目だ。文學界の賞を取ってから、
いかに書くかを考え続けている節がある。上手いし小説を書くことに誠実なのだが、そこがちょっとマズイかもしれ
ないなぁ…(頑張ってほしい人なのだけど)
Lucky
Man 【Michael J. Fox】
パーキンソン病と闘いに進路を変えたMJFが最後に出演したドラマ、「スピン・シティ」が好きだった。後半ヘザー・ロックリア
(ボンジョビのギタリスト、リッチー・サンボラの奥さんでもあるが、ブリットニー・スピアーズの姉ちゃんにも見えませんか?)が
登場してからは話が大味になってしまった辺りの理由もわかって面白い。内容はと言えば、卒なくまとまったタレント本では
あるけれど、ウディ・アレンとの話など興味深いものがいろいろある。最近ハリウッド映画には疑問を感じる点が多いが、まだ
アメリカのテレビ業界(彼はカナダ人だけど)にはクリエイティブなことへの誠実な熱意が残っていることを感じさせられた。
えーっと、素直な感想になってしまったけど、原書で読んだので少々荒い解釈になってしまったかもしれません。でもシンプルで
とっつきやすい英語は中級以上の人にはなかなお薦めです。
ドットコム仕事術
【大前研一】
大前研一という人は、呆れるほどのバイタリティを持った戦略的努力家だ。エンジニアとしてキャリアを始め(初めての
国産原子炉開発を目指した)ビジネスの世界に転身。マッキンゼー初のアジア人取締役となり、知事選出馬、起業家を
支援するさまざまな活動にくわえて、趣味のクラリネットは玄人はだし、休暇は家族でスキー、ダイビング、オフロードバ
イクを楽しむというスーパーマンぶりだ。一歩間違うとかなり嫌味な人間だが(実際そう思っている向きも多いだろうな)、
その文章からはどことなく庶民的愛嬌が感じられる、憎みきれない超エリートでもある。
しかしこの本、一見ビジネスのノウハウ本や指南書のようだが、実はある種のタレント本だ。例えばお笑いタレントが、
無名時代は不良だった(もしくは地味でもてない少年だった)が何かと出合って努力と工夫を重ねて運を味方につけ、
スターになる、というのと構造的には同じである。大前氏のアドバイスを自分のビジネスや生活に活かそうとするのと
同時に、大前ファンとして「やっぱり研さん(?)、たいしたもんだ」とカタルシスを味わっている読者の姿が目に浮かんで
しまう。
でもそれは悪いことではない。どんなものからでも学ぶ人は学ぶものだ。その辺のビジネスセレブによるハウツーものや
自己啓発本より公正で具体的であり、人間としての見識も高いように思える。ちょっとばかり成功した起業家や口と立ち
回りの上手いコンサルもどきの本を読み終えて、「つい扇情的−あなたも必ず○○的な−コピーに惹かれて買ったけど、
結局奴らの懐を肥やしただけだなぁ」と悔しい思いを味わうよりは、大前氏の著作を読んだ方がいい。少なくともビジネス
風味のエンターテイメントとして充分楽しめる。
しかし元電通の岡康道と吉田望の「ブランド」も酷かったなぁ。第一章あたりはなかなか面白いのだけど、読み終えると
彼らが言いたかったのは「やっぱ俺たちって凄いよね」ということで、結局彼らの「ブランド」化に自腹を切らされたのかと
わかると、もう笑うしかない。
夏への扉
【ロバート・A・ハインライン (The Door Into Summer by Robert A. Heinlein
/ 福島正美訳】
他の作品を読んでないという無責任な状況ではあるけれど、ハインラインの中でも最高作という評価には納得できる。
実は20年ほど(ひえ〜)に読んだときの、すがすがしく切ない読後感が忘れられず、久し振りに手にした一冊だ。
あらためて読むと、純正SFファンでない俺にとってはあまり必要とは思えない描写もある。タイムパラドックスの解明にも
少々?が残る。しかし物語の核にある「誰の元にも属さない、清廉なわからず屋、もしくは頑固者」という生き方はいまも
瑞々しい。「ハインライン版ライ麦畑」なのかもしれない。
自分の読書ジャンルとは違うけれど、こいつは忘れられない本。他に挙げるとすると、「麻雀放浪記」(ただし第一部)も
そんな一冊だなぁ。
ダロウェイ夫人
【ヴァージニア・ウルフ (Mrs. Dalloway by Virginia Woolf
/ 近藤いね子訳(みすず書房)】
正直言ってよく分からなかった。訳も、古い(76年ものです)せいもあったのか読みにくいし、ところどころ文章としておかしな
部分がある。しかし最後まで読んでしまったのは、ときたま出くわす人間性についての鋭い一行−善良であることの手に負え
なさなど−と、わからないなりに不思議なストーリーの緊張感に惹かれて完読してしまった。
解説を読んでわかるというのは小説との付きあい方としてはなっとらんのだが、著者が時間をキーとする小説の新しい可能性に
挑もうとしたこと、そのタイトルが途中では「時間」であったことなど、「めぐりあう時間たち」の基本的なアイデアは既にここにあった
のだと思わせられて興味深い。別の訳、もしくは原文(これも手こずりそうだけど…)で再挑戦してみたい一冊ではあります。
花腐し(はなくたし) 【松浦寿輝】
平成12年前半の芥川賞受賞作。(ここのとこ続いているなぁ)この人の名前は映画評論の世界で耳にしたことがある。
たいそう立派な経歴で、アカデミック的には間違いなく「エリート」なのだろう。が、この小説の世界はどこか猥雑でいかが
わしい香りを持っている。持っている、と書いたのは、時々文章の中から浮上してくる概念的インテリジェンスだ。朽ち果て
かけた新宿のアパートに立ち退き依頼を無視して居座る正体不明の男伊関が人の生き死について語る、「元はと言えば
ただの蛋白質の分子の塊から始まったんだぜ。俺らの精液の一しずくだぜ。塵が寄り集まって出来たものは、遅かれ早か
れどうせまたばらけて塵に帰ってゆくだろう。」といしう台詞、インテリの悪ぶりのようで気恥ずかしい。以前斉藤美奈子が
「趣味は読書」の中でもコメントしていた、「オマンコ」を連発する上野千鶴子のような寒けに襲われる。面白くもドキッとも
しないんだよな、こういうの。
頭の悪い言い方だが、「力量はある」作家なのだろう。雨降る新宿裏手の描写は、吉行淳之介の「驟雨」の一文を
ほんの一瞬だが思い起こさせる…気もする。もとよりこの人、東大の教授(だから偉いとは思わないが)で評論、詩など
様々なジャンルで評価の高い仕事(という言葉はしっくりこないな、活動という方が近いかも)をしている「知のマルチ
プレイヤー」でもあるので、かえって自分の物知らなさ加減をさらしているようでもあるが、でも小説は小説だしね。
聖水
【青来有一】
下の「熊の敷石」と同じく平成12年後半の芥川賞受賞作。末期の癌で死期の迫った父と彼を取り巻く人々の話。その
背景にはかつての隠れキリシタンの末裔のエピソードがある。しかし「中陰の花」もそうだったけど、なぜ超常現象的な
描写(庭の草の陰に魂の存在を感じるとか)を交えなくてはならないのだろう。仮に著者自身がそれを信じていても
(実際そのようなコメントがある)−全面的に否定したり非科学的だとあげつらうつもりはないのだが−それを文学の
要素として差し出されることには抵抗がある。審査員は納得いっているのだろうか?ものを見ることの責任を放棄して、
現象のなすがままに賢く泳いでいるように思えなくもない書き手の姿勢には疑問が残る。
ただここのところ、過去を見つめなおしたり折り合ったりする話を続けて読んでいて(全部芥川賞ものだけど)その類似性が
不思議だ。文学的にそういう時代だったのだろうか。
熊の敷石
【堀江敏幸】
平成12年後半の芥川賞受賞作。かつてフランスで知り合った写真家の友人と10年以上ぶりの再会を果たす主人公が、
彼がユダヤ人として持ち続けている歴史的な影を見出していくような、といったストーリー。(要約するつもりで読んでいる
わけではないので、簡潔に書くのは結構難しいな。)淡々としたその文体は塩を入れ忘れたパスタのようでもあるが、全体の
雰囲気としては嫌いではない。仏文学者のクリエイティブワークとしては面白くできている一作だ。
中陰の花
【玄侑宗久】
平成13年前半の芥川賞受賞作。えーっと、よくわかりませんでした。宗教的超自然フレーバーの入った、地味な僧侶の
覚書のように思えてうまく入っていけなかった。審査では「文学としての未曾有かつ正統な領域を開拓していくことに期待
している」といった評があったが、インターネットで超常現象を検索する主人公の描写のどこに文学を見出せばいいのか。
俺としては著者の受賞の弁、「田口ランディのトランスパーソナルの描写に圧倒されて坊さんの私がこうしてはいられないと
思った」で、もーいいや、という感を抱く。あれに圧倒されるのって、世間知らずということじゃないのだろうか?それともそこに
僧侶ならではの視点が存在するのか。どーもその辺見えてこないのだ。
en-Taxi No.2
【柳美里/福田和也/坪内祐三/リリー・フランキー 責任編集 扶桑社】
えーと、これは雑誌なんだけどこれはちょっと書かなくてはと思った一冊。文芸誌でありながら、雑誌としての「雑」が
ちゃんとある。それは「猥雑」であったりもするが「複雑」ではない、すっきりととがった雑だ。内容的にどうのこうのというより
一冊を通じて、雑誌としての志を感じる。ところでこの装丁の感じ、その内容とあいまって何か思わせるのだが…と思ったら
○○スナイパーだった。あれもなかなか凄い本でした(まだあるんだっけ?)。アラーキーとかもよく撮っていた。○○の中が
わかった方、よかったらご一報ください。
この人の閾(いき)
【保坂和志】
平成7年前半の芥川賞受賞作。選者は「男と女の関係性において新しい文学」「何も起こらないひと時にこめられた豊かな
情景」(ちょっと意訳気味ですが)を評価しているが、そこまでのものだろうか?右脳系インテリの作文という感じがしなくもないが、
筆力のある人ではある。なんかこれも「タァイムマシィーン!」な作品だ。
みんな野球が好きだった
【神吉拓郎】
永六輔、前田武彦と同期の放送作家で直木賞も受賞している作者のエッセイ。よき時代のやんちゃで品の良い都会っ子が
書く、肩の力の抜けた練達の文章に目を細める人もいるだろう。いいものだな、と俺も思う。でも、それだけでは答が出ないのが
今の時代だ。この人(惜しくも1994年、まだ65歳で亡くなられた)の素直な眼で見た今の話を読んでみたかった。
誕生日の子どもたち
【トルーマン・カポーティ(Children on Their Birthdays by Truman Capote)
村上春樹訳】
カポーティ自身の幼年期と重なる6つの短編集。本と同題の「誕生日の子どもたち」は、ノスタルジックでありながら鋭く研がれた
小刀のような切れ味を持つ小品。「クリスマスの思い出」は、純度の高いセンチメンタルさが心地よく残る。小ぶりであるが質の高い
一冊だ。しかし村上春樹の訳って本人が横で訳しながら読んでくれているみたいで、ちょっとなー、とも思う。小説のときの客観性が
翻訳をするときに感じられないのは何故だろうか。
優しいサヨクのための嬉遊曲
【島田雅彦】
今頃読んだの、と言われても仕方ないけど、ともかく読んでないものはしょうがない、と思って巻末の著者紹介を
見たら「…東京外語大学ロシア語学科へ。現在四年在学中。」と書いてある−20年前の版だった。当時芥川賞
候補となった話題作も、今読むと初々しいところのある若い小説だ。(決して爽やかではないけど)ちゃんと才能も
感じさせる。(…つーか今それを言ってる俺もどうだろう)併載されている「カプセルの中の桃太郎」も面白く読んだ。
しかし気になるのは何故これがそこまで評価されたのか、ということ。安っぽい言い方をすれば、時代の気分(あー、
恥ずかしー)とのマッチングだったのだろうか。この小説に描かれた素直な屈折感−当時の若者の無力感とトホホな
反抗心といった具に選考委員は「そう、そういうことなんだよ君!」と膝を打ったのだろうか。著作物としてのレベルの
高さを感じるだけに、こういう作品は俺にとって一種の「タイムマシン」に見える。そう言えば小林克也の名音楽番組
(?)ベストヒットUSAの中にも「タァイムマシィーン!」(小林先生風に)というコーナーありましたね。
パルプ
【チャールズ・ブコウスキー (Pulp by Charles Bukowski) / 柴田元幸訳】
ブコウスキーの遺作となった“へんてこハード・ボイルド”…などというベタなフレーズをうっかり書いてしまって
思うのは、ブコウスキーはもの凄くユーモアのセンスがあったのではないかということ。それも「クスッとさせる」
スノビッシュなものでも「ドッカンドッカン笑わせる」おつむの要らないやつでもなく、ふむふむ読み進むうちに
身体の凝りがほぐれているような、さりげなく浸透力の強いもの。正直言って「面白い!」とは思えなかったが
ブコウスキー・ワールドでしばし遊ばせてもらった、という読後感だ。
町でいちばんの美女
【チャールズ・ブコウスキー (The Most Beautiful woman in Town &
Other Stories by Charles Bukowski) / 青野聰訳】
前回読んだ「ポスト・オフィス」のような手応えがないのは、ただ短編集ということだからだろうか。ここでの
ブコウスキーはちょっとインテリに見える。酒をずるする飲んでオンナとうだうだやっているダメ人間ぶりは
変わらないが、郵便屋のときのある種の生真面目な自堕落ぶりがここではどこか意識的に見えてしまう。
訳のせいもあるのか?ますます原文で読まなくてはという気になる(俺にとっての)ブーさん第2弾だった。
4番目のK 【マリオ・プーゾォ (The Forth K by Mario Puzo) / 真崎義博訳】
オメルタが面白かったので、今度は「最高傑作」とも言われる(信じちゃいかんとわかってるのだが)この作品。
いまひとつ楽しめなかったのは、正義と野心のアメリカンガイズの魅力が、シシリーのイタリア男達ほどなかった
からかもしれない。魅力を感じたキャラクターはアラブ人テロリストの男ぐらいだった。野心作であることは非常に
よくわかるのだが、それが空回りしていてお話としての躍動感が乏しく感じられた。
しかしそれは別としてこのプロット、出版が1992年のクリントン初当選の年だったけれど、いまならギョッとする
設定だ。今これを読む人間全員が911を思い出さずにはいられない。ある種のアメリカ政治のドラマ性にはこの
ような小説が目に見えない影響を与えているのか、あるいは逆に小説が現実を反映しているのか。
欧米のこういう小説の面白いところのひとつは、ストーリーの中にちりばめられた人生訓だ。例えばこの作品でも
『人間の心は悪をすぐに理解するものだ。(略)悪などというものはけっして謎めいてなどいない。謎めいているのは
愛のほうなんだ』というような科白は気が利いている(もちろん誰が言うかや前後の話の流れも重要なのだが)し、
きちんと物語に奥行きを持たせる効果もある。好き嫌いもあるだろうけれど、俺はこういうのは結構好きである。
そういうわけで結果的には楽しんで読めた。しかし訳は少しだけ難あり。どうも話の辻褄があわない箇所が幾つか
あったり、上記引用でも同一文章に「など」が2回出てくるような文章としてこなれてない箇所があったり…気になる
ほどでないのだけれど。
コンセント 【田口ランディ】
この小説は「精神世界版・美味しんぼ」だ。その理由は、
1.我々の「人間の意識って一体なんや?」という疑問に論理的(心理学的)解釈で答えてくれる。
(同じように炊いたご飯なのにどうしてこんなに味が違うんだろう、という謎の解明のような。)
2.くわえて常人の知り得ない「精神の神秘、真実」をストーリー仕立てで教えてくれる。
(これがこんなに美味しいとは!こんな食べ物があったなんて!というニュース)
という2つの軸で成り立っているウンチク物語だからである。俺は何らかの素材に寄って立っているものを
自立した創作物とは思えないのだが、その中でどちらか選べと言われれば「美味しんぼ」の方だ。少なく
とも仕事として嘘がない。インターネットで、田口氏の盗作問題を追及するサイトがあった。それについての
本も出版されているようだ。内容はそれなりに信憑性があって、この人作家としてやばいんじゃないだろうか、
とも思わせる充実(?)度だ。
しかし俺が言いたいのは、そんな知識がなくても感じるいんちき臭さだ。もっともらしい心理学的推論から
たどり着く一種のオカルト的世界(それ自体に偏見はない。興味もないけど)。コンピューターの構造と人間の
意識の比喩表現。(わざわざ小説に書くほど目新しいものか?)これらが、短いセンテンスと頻繁な改行から
なる稚拙な文章とそのリズムで畳み掛けられる様子が、どうも嘘臭いの。主人公の「私」以外の人物造形の
浅さは、作者のご都合主義を感じさせられる。もうひとつ。マザコン話である人物との決着をつける手は反則だ。
話自体も簡単すぎる(そこにきて急に心理描写が女性週刊誌みたいになるのは何故だ?)
田口氏自信はある種の力量を持つ書き手だと思う。(別に貶して持ち上げる、という頭の悪い評論家のパターン
ではなく)何らかの主題に対しての取材力と描写能力は高い。この小説も、社会の一員という視点を自分という
個人のものに置き換えたルポルタージュのようでもある。しかし小説なのかな…小説世界の創造者として公平で
あること、素材はともかく表現がオリジナルであること―俺の考える小説の条件を、この作品は満たしていない。
主人公は最終的に「人間の記憶というデータベース」にアクセスすることができるようになるが、実はそれは作者
自身なのかもしれないと感じたが、その理由はここには書かない。俺はこの人のメルマガを取っている。(6万人も
いるのかよ!?)共感を感じるときもある。一回仕切り直しして欲しいな、と切に思う。(新作は読んでないけど)
P.S.(手紙じゃないか)彼女のコラムをMSNのサイトに掲載するに当たってはジャーナリストの田中宇(たなか・さかい)
氏がサポートしたようなコメントを読んだことがある。このふたり、トピックは違うけれど文体の癖がどこか似ています。
不思議だ。(http://tanakanews.com/)
ガソリン 【大道珠貴】
文學界2003年3月号に掲載された、芥川賞受賞後の第一作。その号にはインタビューも掲載されている。
この辺は文藝春秋なところ。そのインタビューの中で氏は、川端康成の文章の美しさに魅せられ、特に「山の音」は
何度も書き写したと語っている。「たんぽぽ」「みづうみ」などの美しさにもその例として語られていて、以前
「しょっぱいドライブ」で指摘した平仮名使いの件は、このあたりに背景のある意図的表現(まあ意図的でない
表現なんて殆どないけど)なのかもしれない。
しかしこの人、やっぱり下手だと思う。小さい頃の環境はともかく、そこで体得した価値観と物を書く上で
の人生観は同じである必要がないし、そうであればその作家は「耳掻き専門店的一品入魂商売」と変わ
らない。この短編は氏が始めて男(中1の少年)を主人公にして書いたものだということだが、そろそろボロ
が出始めているよ、と感じる。何か狭いよ、その世界。家族を疎んじ、憎む表面だけ書くのは、体のいい
「あなたの気持ちわかってるわよ」話と大して変わりがない。
大道氏はもしかしたら「人間失格」を書こうとしたのかもしれない。しかしそれには浅すぎる。何かを言いたい
のなら、徹底的にそのレベルを上げるべきだ。これがそのつもりなら、元に戻って女性主人公の話を書き続け
た方がいい。
音楽(ロック)評論家渋谷陽一氏のラジオ番組に、生きているのが嫌で何度も手首にカッターを走らせた少年
がリクエストをしてきた。エミネムを聞いて初めて救われたというものだった。そのあとの葉書で、自分の投書が
読まれたことで、何かと繋がっている気持ちになり手首を切らなくなったことが書かれていた。彼は自分と同じ
ような人間にもメッセージを送ろうとしていた。聴いて痛くて、しかし染みる話だった。それぐらいの切実を書いて
くれよ―元気出せ話ではなく、そこにあるリアルを。書けない人ではないのだから。
優雅で感傷的な日本野球 【高橋源一郎】
この小説の中を最もよく表している文章をひとつ選ぶと、これだと思う。(ネタバレ注意!かな?)
「堰を切ったように僕に向かって野球の情報が流れ込んでくる。
『注意しろ。耳を澄ませろ。この世に野球と無関係なことはひとつもない』
ぼくは耳を澄まし、目を見開いた。ああ、なんとぼくは無知だったのだろう。世界はこんなにも野球で満たされていたというのに。」
しかし俺にはわからん、この小説。ハチャメチャであるが、シュールとかアバンギャルドとかではなく、ただ文章というものを
知り尽くした超絶技巧の持ち主が好きなように書いてみた、という趣だ。その好き勝手加減が上記の野球話でおおらかに
括られているために、小説として体を成している。滅茶苦茶だけどうまいのだ、実際。でもなんか、一流フレンチのシェフが
酔狂で作ったプロバンス風もんじゃ焼きとか、ポール・ギルバートが遊びで弾くどんぐりころころみたいな感じがつきまとい、
俺はついひとりごちてしまった。「まじめにやらんかい!」すいません、文学IQ低くて。
ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門
【TELLING LIES FOR FUN AND PROFIT by Lawrence Block / 田口俊樹、加賀山卓朗訳】
加賀山氏の訳ということで目を留めた(田口氏がメインのようでもあるが)本だが、面白かった。自分でもほんのちょっと
ものを書いている(この稚拙なサイトも含め)せいか、ひとつひとつのアドバイスが明快で具体的なことに感心。けれども
物書きでなくても、何かアイデアを必要とする仕事なり趣味を持つ人にも同じく楽しめ、得るものがある。クリエイティブと
いうことに必要な、理屈で説明できない直感力と、同時に農作業のような地道な積み重ねの大切さが、ある種懐かしい
タイプのユーモア(自分が真似ると、きっと寒いことになるだろう。村上春樹的、アメリカン・ライターズ・ジョーク。)とともに
語られている。そんなところだろうか。しかし振り返ってみると、これもひとつの立派な読み物で、しかも出版後22年以上
経っても本屋に並んで著者の銀行口座を増やしている。でタイトルが「ベストセラー作家入門」。なんかブロックの親爺に
一杯食わされた感じだ。悪くないけど。
しょっぱいドライブ 【大道珠貴(だいどう・たまき)】
掲載された文藝春秋で読んだ。タイトル通りしょっぱいなー、というのが最初の感想。確かに文学としてのレベルは
あって、人物造形やストーリーをすすめていくテンポ感はうまい。文章自体は、漢字と平仮名の使い分けのようなこと
(ひごろ、とか漢字にしない理由はなんだ?)から始まってどこか稚拙な印象を受けるのだが、選者の中にはうまいと
褒めている人もいる。「たくまざるユーモア」(三浦哲郎)「さみしいユーモア」(高樹のぶ子)というコメントもあるが、
これがユーモアだとすれば、前に進むことを止めた人が最後に振りしぼる愛嬌だ‐と思うと、これは前に進むのではなく
ただ生きていこうとする人の話だとわかった。それを否定はしないしお説教くさい「前向きのススメ」は御免だ。しかし
何らかの欲や好奇心を持っている人間には、このユーモアは侘し過ぎる。小説としてはうまい、ということに尽きる一作。
しばらく前に読んだ「イッツ・オンリー・トーク」と対照を成す作品だと感じた。違いと同時にとても近いものを感じる。
ポスト・オフィス 【チャールズ・ブコウスキー (POST OFFICE by Charles Bukowski) / 坂口緑訳】
ブコウスキーさんは、名前はよく知っていたがお手合わせは初めてのお方であった。前評判ではどうもインテリの好む
タイプの粗野で低俗な語り口、という印象があってちょっとヤバイかなと思っていたが、なかなか面白い。第一こいつは
働き者で、女とだけじゃなく、仕事もちゃんとやっている。要所要所でナイスガイで、一歩間違えると、「ああ見えても
実はいい奴」小説に陥りそうだか、そこはクリアしているようだ。ダーティでチャーミングなオヤジである。決して自慢話
とかしないしね。ただ翻訳は結構清潔で、(訳者解説の、「効率が最優先される現代社会では、誠実に生きようとすれば
するほど、巨大システムの前での人間の無力さを思い知らされる。」というのはどーだろう。書きたかったのはそういう
問題ではないと思うのだが)訳によっては印象が変わりそうだ。そのうち原文で読んでみたい。
オメルタ ‐沈黙の掟‐ 【マリオ・プーゾォ (OMERTA by Mario Puzo) / 加賀山卓朗訳】
ゴッドファーザーのプーゾォを友人の加賀山卓朗氏が訳した、ということで手に取った。最初、彼の訳し方を気にしながら
読んでいたのだが、ぐいぐいストーリーに引き込まれてしまった。面白い。久々に暇を惜しんで本を読んだ。この小説は
もちろんエンターテイメント作品であり、登場人物はチェスの駒のようにそれぞれの役割を忠実にこなす。自己矛盾への
懐疑や葛藤という純文学的ファクターはない。しかし、ところどころに配された人生の知恵や真実には時折ハッとさせられる。
いい小説って、そういうことなんだろう。えーっと、加賀山氏は同じくプーゾォの「ザ・ファミリー」や、イーストウッド
監督で映画化された(ショーン・ペンも出る!)デニス・ルヘインの「ミスティック・リバー」などを手がけた、のってる
ナイスな翻訳家です。キャッチャー・イン・ザ・ライもいいけど、こっちも読んでみてね。
水曜の朝、午前三時 【蓮見圭一】
本の帯には児玉清(大変な読書家らしい)の「飛行機の中で涙が止まらなかった。素晴らしい恋愛小説。」というような
コメントが載っている。読み終えて、生真面目で穏健なインテリ(あくまでイメージだか)の児玉氏が涙する、という
ことに妙に納得。そういう小説だ。
蓮見氏の本を読もうと思ったのは、先に文芸誌(群像もしくは文学界)に載った「ラジオ・エチオピア」という短編を読んだ
からだ。それほど売れっ子ではない中年の物書き(妻子あり)と片山はるかという翻訳家のインテリ女性の関係が主題だが、
この女性像がかなりクサイ。山田詠美なら、けちょんけちょんに書きそうな、男が作った女のキャラクターである。バッハが
どうのこうのと言うことがいちいちうざったい。男に出すメールも、世間知らずのナルシストとしか思えないキャラクターだ。
最近増えているお洒落、こだわりオヤジ向けの連載小説みたいな話ではある。男はそれなりに知性と自堕落さを見せはするが、
あくまでも都合がいい。「失楽園」は読んでいないが(読む気もないが)あれが企業戦士系ビジネスオヤジの趣味なら、これは
ちょっと文系の、そこそこ知的職業オヤジに向いているのかもしれない。しかし、ある意味で楽しんで読んでしまった。それも
結構熱心に。つーことは、俺も根っこの部分では同類なんだろうか。(金はないけど)
女性キャラクターの設定は、この「エチオピア」と見事なくらい同じである。話の方向が軽いか重いか、時代は今か少し昔か、
といった点は異なるが、ファッション雑誌のグラビアで、同じモデルが幾つかの違う服−しかし基本的なコンセプトは同じ−を
着て登場している感じだ。長くて少し重い(題材が)分、「水曜の朝」の方が退屈だ。うかつにも、前半部分ははまって読んだ。
(かなり読み飛ばしはしたが)三田線の中だったので、涙は出なかったが、飛行機だったらどうだったのだろう。
この惹かれ具合は、ジャンクフード−それもハンバーガーというより、身体に染み付いた「よっちゃんの酢漬けいか」みたいな
やつ−に似ている感じだ。何となく飛行機の中では、15%ほどセンチメンタル度があがりそうな気がする。だから児玉氏は
「懐かしいなぁ、こういうの無性に食べたくなるんだよ。」と泣いたのではないだろうか。
イッツ・オンリー・トーク 【絲山秋子】
第96回文學界新人賞。面白かった。小さなストーリーの積み重ねだけれど、主人公のことが様々な側面から見えてくる。リアルに女だな、
と感じた。若さ―年齢ではなく、書きなれ具合とか、全体に漂うかすかな初々しさ―と欠点の少ない上手さ(推敲を重ねたようなすっきり
具合)のギャップというかバランスというか、よくわからないけど気になる書き手だと思う。
選者のひとり、島田雅彦が「ヤリマンの生態記録としても良い」とか書いている。もちろん、ある種の情緒を排除しようとして選んだ言葉だ
ろうが、やっぱり外れているよ。やっぱインテリさんかな?と思う。山田詠美は相変わらずの一見脱力、実は真剣なコメント。彼女のこの辺の
無頼派−男のそれと違ってナルシシズムに入らないからいいけど−ぶりは、何かを背負っているようでご苦労様な感じがある。
でも「ロバート・フィリップーがつべこべギターを弾いている」という文章、相当よい。座布団100万枚!て感じだ。
星々の悲しみ 【宮本輝】
久し振りに読む著者の本。(といっても借りてきた文庫だが)「泥の川」みたいなのもいいが、自分には「避暑地の猫」の、
クラシック(というか古いというか)で陰があって、サスペンスが入った雰囲気が妙に好きだった。この人の持ち味、と
いうか武器と呼んでもいいような気がするのだが、行間に流れるなんともいえない空気は、生き生きしていて通俗的で、
どこか醒めていて、居心地のよい定食屋か居酒屋のような雰囲気なのだ。
で、この文庫。表題作を含めて短編が7つ。「星々」がいちばんいいが、宮本輝ワールドを堪能するにはどれも充分である。
解説にあるように、これらの短編は死を根底のテーマに置いている(というか、それぞさ律儀に人が死ぬ)けれども、俺は
「テーマとしての死」を越えて、ちゃんと宮本ワールドが作られていることが凄いと思った。作家である。
毎月新聞 【佐藤雅彦】
この人の「経済ってそういうことだったのか会議」「プチ哲学」なども面白く読んだが、自分として一番考えさせられたのは、
広告制作者としての一種の作品集である「佐藤雅彦全仕事」である。人の目構わず言えば、彼と自分には共通する部分がいくつか
ある。しかし業績としては全く異なる結果になっているわけで、そんなところについて読みながら随分考え込んでしまった。あまり
健全ではない読み方だが、この人独特の「温度の低さ」が立ち止まって物事を考える良い機会を与えたてくれた気がする。
そういった一連の本は、彼独特のコントロールされた世界観のもとで作られていて、かつてのサントリーモルツのように一見
他愛ないけど、完璧に計算され作り上げられた広告とそのありようでは同じだった。しかしこの「毎月」は、月に一回という
企画性が作用したのか、珍しく彼の私的な側面が覗いていると思う。そういった面が出ているのは「じゃないですか禁止」や
「真夏の葬儀」のような完成度の高いものよりも、やや散文的な−というかあまり計算をしないで書いたような「クラクラする
こと」(タイトルは違ってると思う。ゴミ袋の入っていた袋がゴミになるときの価値観のシフトにクラクラした、という話)の
ようなものに「実・佐藤雅彦」が垣間見えて面白かった。
多分この人は、もう広告の世界に帰ってはこないだろう。(また、彼でさえしばらく間をおいて帰って活躍するのは難しいはず)
しかし、自分の指向を発見し、そこからルールを発明していくというメソッドは変わらないだろう。まだ目が離せない人です。
世界でいちばん熱い島 【小林信彦】
この小説は以前読んだことがある。読み返そうと思ったのは、急に小林信彦が読みたくなったからだ。私は小学生の頃に
「オヨヨ大統領シリーズ」と出会って、その殆どを読んでいる。「冒険」とか以外は立派な大人向けエンターテイメントで、
子供心にドキドキして読んだ記憶がある。当時の風俗を取り入れ、ひょうひょうとふざけたその世界にはまった。田舎の
ガキだった自分には、都会の大人の少し斜に構えた粋を感じたのだ。中でも好きなのは「大統領の晩餐」で、食の話とからめた
ストーリーは、著者の自嘲的エピキュリアンな部分が素直に表れている気がする。
なのに、なのにこの小説はつまらない−今回は。多分前回は、もっと面白く、それなりの興奮を覚えながら読んだはずだ。
しかし今回は人物描写の青臭さが鼻につく。私がスレたのか?
実はこれを読む前に、「日本人は笑わない」というエッセイを手にした。読めなかった。昔の落語や喜劇の「本物加減」
(それだってある意味では海外の模倣から始まった部分が大きいと思うのだが)と今の安易な出し物および見る目のない
客を嘆く目線は嫌いじゃない。筋の通った「昔は良かった」は歓迎だ。しかし全般的に、後ろ向きだ。読んでいて寂しくなる。
一目於いていたオヤジが年とともに気力をなくしてしまったような気分だ。この人は基本的に山本益博や色川武大に通じる
「失われた江戸っ子」(みんなそうだっけ?)的庶民の美学の人だ。オヨヨシリーズで見せた律儀で生真面目なおふざけぶりは、
軟派な堅気の精一杯の粋だったのだろう。数年前に氏は、「もうオヨヨのようなものを書くのを止めて意味のある純文学を…」
みたいなコメントをしていた記憶があるが、それは違う。小林さん、貴方が書くべきなのは、現代のオヨヨなのだ、と言いたい。
(しかし表題の作品も既に10年以上前のもの。作者ももう71(1932年生まれ)。ちょっと遅かったかな…
もうひと言。新潮文庫判の解説(浅羽通明)は、ほんと勘弁してくれ。寒いにも程があるぞ!
リトル・バイ・リトル 【島本理生】
史上最年少の芥川賞候補ということで話題になった作品。ところで綿矢りさの「インストール」はどうなったのだろう。
アマゾンでは「こちらもどうぞ」ということで紹介されているところが、うーん、という感じなんだけど。(そういえば
辻仁成と大鶴義丹て、かぶりませんか?ちょっと差がついた感じもあるけど)
感想を述べてもしかたないと思うが、大変よくできた子供の小説、という感じだ。子供、という言い方が悪ければ、若者、
としておこう。悪意はない。描写も構成もレベルが高い。キャラクターの書き分けは、ややステレオタイプではあるが、
くっきりしていて悪くない。その上出来さに、ただオヤジとして、「ムムム、とても上手なんだけどこんなんでいいの?」と
困惑して読み終える、という感じだろうか。
ハンソンという兄弟ロックバンドがでたとき、売れないオヤジミュージシャンは何を感じたのだろう。うまい。ポップ・
ミュージックとしては完成されている。で、どうなの、という感じなのだろうか。(俺はCD買ってよく聴いたけど)
でもホワイト・ストライプスまでくると、もう子供なんて言ってられないよな。
撃ちてし止まむ 【難波功士】
コピーライターから大学院で修士号を取り、現在関西学院大学の専任講師という著者。前半の語りは元コピーライターらしく
(?)テンポがいい。中盤からはやや情報の整理に押されて、前半部で感じる陰にこもった著者の思い入れみたいなものが
薄れているのが惜しい。退社前の会社の資料室でこの本を書くきっかけになった文献を一気に読んだという熱気が続かなかった
のか。とはいえ目の付け所は面白く、資料として(変な意味ではなく)価値のある一冊。
近代建築への招待 【ユリウス・ポーゼナー / 田村都志夫訳・多木浩二監修】
日本語が読みにくい。しかし大学での講義が元のこの本は、硬いがしっかりしていて読み応えがある。自分は建築については
ド素人なので、内容の是非までわからないが、あくまでも学術的な姿勢は、最近中ばトレンド化してきた建築話の中で新鮮に
響いた。コルビジェというとすぐ「家は住むための機械である」というのが取りざたされるが、もうひとつ「建築か革命か」に
見られる彼の社会的な視点をわかっておかないと、上滑りなキャッチフレーズに終わってしまう。そういえばある種の「スター
文化人」って、なんかスローガン的な言葉を持っているなぁ。(マクルーハンの「メディアはメッセージである」とか。)
趣味は読書 【斉藤 美奈子】
何かスタイルを掴んだ、という感じだ。この人本来の、(良い意味での)まっとうで普通の視点が、文章として
定着してきた。世の中にはいろいろな嘘のテクニックがあって、「100人の村」話も、ある意味ではそのひとつ
だと思う。ああいう素朴な統計的(あくまで「的」)な話は、全く世界に目が向いていない人に、世の中の多様性や
不平等ということを気づかせるには有効だろう。しかし問題はそれからだ。単純化することによって切り捨てられる
問題の複雑さ(だいたい何千年も揉めていることが、なるほど!と一気にわかるようになること自体おかしくないか?)
すごく当たり前なんだけど皆(俺も含めて)やられているロジック。そういうものを、ドトール(スタバではなく)で
コーヒー飲みながら話すようなローキーで語ってくれるところは天下一品です。(ちなみに、日本であんなにスタバが
有難がられるの、ちょっと恥ずかしい。)
叶恭子の話を「気宇壮大な援助交際」と言った切れ味には、しびれますね。やや“ために書いた”部分のある前作
「文壇アイドル論」(前2,3章と後半は掲載形態の違いもあって落差がある)よりも、つき抜けた感じが素敵だ。
水滴 【目取真 俊】
あーっ、これ小説だ、と思った。いい意味である。話の構成、というより語り口には惹きつけられる力がある。それは
戦争がどうのこうのではなく、人間の話になっているから。再読したい。
ブエノスアイレス午前零時 【藤沢 周】
お上手!という感じの一作。若々しいのに、凄く長けている感じは何だろう。でも、どこか入り込めないのは、著者の隙の
なさ、無邪気さの排除なのか。
ピカソ・クラシック 1914−1925【12月11日(木)上野の森美術館】
ピカソの作品に触れるといつも思うこと−「こいつ、天才だ…」、そしてただ溜息。写実だろうが線描だろうが抽象だろうが、「ほら、こんな風にできちゃうもんね」とばかりに軽々とやってのけ、しかもそれがとてもイケてる。おまけにいい男で女にも…それは関係ないが、ともかく毎度ノックアウトされる感じは今回も同じだった。実は1914年の第一次世界大戦勃発以降、写実期のピカソを展示してそんなに面白いものか疑問に思っていたのだが、予想に反してピカソに別の角度からライトを当てるなかなかの好企画だったのではないだろうか。
実際のところバレリーナのオルガと出会い結婚していた頃の作品は、もちろんレベルが高く(当たり前か…)興味深くはあるのだが、いつもの衝撃的にやられた感じはない。妻や息子を描いた作品はほほえましくはあるが、俺にしてみれば「天才のひと休み」という印象がある。しかしこの時期の仕事を見て、いつも感じること−「ピカソはドローイングの人なのだ」を新たにした。3次元の具象をシンプルな線で描くことができれば、後はそれを四角という単位で仕上げるか(キュービズム?)、球を基本として再構成するか(丸っこい女性の画みたいな…)はお好み次第である。デジタル化したデーターをコンピューター上で操るようなものかもしれない。しかし一筆書きで描かれた「馬と調教師」などはホント、最高である。笑えてなお芸術の精が入っている。
戦争、オルガとの出会いとそのきっかけとなったコクトー脚本の演劇への参加、父親になった喜び等々、外見的には平和なこの時代、ピカソのなかでは結構いろいろなことが起こっていたのではないだろうか。人が変わるのは何も「激動」の時期だけではないのだろう。展示のトリ(って言うのかな…)が1925年の「接吻」であったのはいささかあざとい感もあるが、それでも何度か見たあの画が新鮮に見えたのはキュレーターの狙い通りなのだろう。もし次回の展示がそれ以降の「ピカソ−新たな次元へ」とかだったら間違いなくみんなリピートしちゃうだろうけれど、そこまでは企画されてないか。相手がピカソだしね。
しかし平日なのに、結構な人出だった(シニア女性多し)。まあ閉会間近というのもあったのだろうが、日本人ってこんなに美術が好きな人たちだっけ?
ガウディ かたちの探求展 【12月10日(水)東京現代美術館】
展示スペースに入った途端、20代前半と思しきカップルの男の方が「ガウディって人の名前だったんだ」とのたまったのを聞いてこけそうになる。一方他の来場者は年配女性が圧倒的に多く、「私がスペインで見たときはね…そういえばサンクト・ペテル寺院も…」とフリークエント・トラベラーの語りも漂ってくる。しかしこんなにガウディ人気が高いというか、これは一種の擬似旅行的イベントなのではという気分に包まれる。
展示自体はやや生の迫力に乏しく、一階と地下の二部構成のうちバイオグラフィ等基本的情報を展示した一階は立体的教科書のようだ。皆、熱心に―試験に出るかのように―壁に貼られた展示を見ている。面白かったのは、地下のパート。ガウディの「幾何学者」(自分で言っている)としての視点をコンピューターグラフィクスや模型で解析したパート。ここで展示されているビデオには彼の言葉がのっているのだが、これが素晴らしいのでここに書いてしまいます。
私には空間をとらえる資質がある。
なぜなら、私は銅版機職人の子供であり、孫であり、ひ孫であるからだ。
この木が私の先生だ。
すべては大自然の偉大な本から出る。
造形美術の素晴らしさのすべてが光に由来する。
建築は光を整え、彫刻は光と戯れ、絵画は色による光の再生である。
光は中庸でなければならず、あり過ぎても少なすぎてもいけない。
連続した形態は完全である。
この世界には一本たりとも垂直な柱はない。
唯一必要なことはどこまでも傾斜させなければならないかを研究することである。
建築作品が美しいためには、
すべての構成要素が、配置、大きさ、形態、色彩の点で
完全でならなければならない。
私はすべてを計算する。
こうして必然性から導かれた論理的な形態が生まれる。
私は総合者を意味する幾何学者である。
なんだか素晴らしいぞ。これはガウディによる一種のマニフェストでもあるのだろう。しかし幾何学者であると醒めた態度をとりながらその作品は思いっきり幻想的でもある。理から出て理を超え感性に響き渡る。これは芸術と呼ばざるを得ない。と、いちばんインパクトを受けたのが彼の言葉であったという、微妙な展示ではあった。今度はスペイン行かなきゃ。
※常設展示
常設展ではあるが、日本の現代美術の流れがわかりやすい良い企画だと思う。興味深いのは今回フィーチャーされている(だから本当の意味での常設ではないかもしれない)今井俊満とサム・フランシス。まず前者、60年代の抽象画はポラック風でありながら、日本的な香りがプンプンしている。20代に渡仏してかなり破天荒な創作活動を続けた今井氏をしても、流れる血の影響は隠しきれないのか。(隠すつもりもなかっただろうが)一方サム・フランシスはかつて訪れた日本の影響か、水墨画の趣をもったアクション・ペインティングの様相。しかしどこかカラッとした味わいは出身地であるカリフォルニアだ。ちょっと安易な関連付けかもしれないけれど、我々のカラダの中に染みこんだ風土というものは存外強いものなのだなと感じる。逆にそれがない表現にパワーは生まれないのか。今の東京キッズはこの先何を作るのか。この辺もモダンアートの面白いところのひとつかも。
子規庵 【11月2日(日)/東京根岸】
俺は俳人正岡子規と同じ愛媛県松山市の出身だ。子規のことは当然昔から読み聞きしきたし、俳句だけでなく彼の人生には
それなりに興味を持って接してきた。しかし今頃になって彼が亡くなったその場所(現在の建物は復刻されたものだが)を訪ねた
のは、子規が俳句を通じて日本語の新しい流れを起こそうとしていたことを知ったからだ。(不勉強といわれても仕方ないが、
ともかく思いついたら行かなくちゃ)写生文というスタイルで誰にでも書けるいきいきとした日本語を作り上げようとしていたなんて、
なかなか面白い奴じゃないか、と思う。19から20世紀の絵画が新しい手法―ただ表現上のテクニックではなく、絵画というものの
在り方をも変えていく―を見出すことでどんどん変化していったことを思い起こさせる。
施設そのものについて言えば、かつての子規庵の姿をできるだけ伝えようという素朴で誠実でスタンスは正しいと思う。しかし
どこか活気のないお役所的文化活動や学校教育の雰囲気がある。俺が子規という男のことが気になるのは、改革者としての
野心と子どもっぽさ、そして松山男のどこかほけっと抜けた佇まい(しかし毎回律儀に飯のことを書いたことだ。食いしん坊でも
あったはず)を感じるからだ。(後者の方はわかりにくい話かもしれないけどね)その「のんびりした熱さ」は半分くらいしか見えて
こない。庭はいい感じで保全されていて関係者の努力がよくわかる。でも子規は偉人に成りたかったんじゃないんだ。野球好きで
好奇心多く、かつ限られた命に悲しみながらもほけっと生きた松山男の魂をもっと伝えて欲しかった。
極真世界大会・決勝 【10月5日(日)/東京体育館】
フルコンタクト空手の元祖、極真会館は創始者・大山倍達の死後いくつかの組織に分裂したが、これは「緑派」と呼ばれる
“小さな巨人”緑健児代表の組織。今年から「新極真会」と改名しての新たなスタートである。試合そのものの感想は、日々
鍛錬に励むアマチュア空手家(道場の先生たちはある種レッスンプロみたいな所もあるが)の闘いなので、皆頑張ってるぞー
という印象。例年の世界大会に比べると外国人選手がもうひとつ迫力がないようには感じたが。
気になったのは、異端の書家、柿沼康二の書のパフォーマンスや新しいテーマ曲を作った長渕剛のミニライブ(一曲だけ)とか、
やたら「天才・塚本徳臣」をアピールするビデオなどの大会演出だ。この大会、主役は全国、全世界から集まった選手のはずだ。
当の書家、ホームページ見るとアホちゃうか…と思うお人柄。書はよくわからないが、作品は面白いと思う。しかし髪を染めて
書の世界では異端、とか言っている暇あったら他のジャンルと張り合ってみたらどうだ。伝統の枠の中で異端ぶるお子さま感が
何ともたまらん。長渕剛は緑代表の親友ということだが、個人的な好みはともかく(同じくお子さまだと思っている)、彼らをお客様
扱いしている大会の運営が悲しかった。組織の人をよく知る友人によると、「人が良くて、彼らに気を使いすぎ」なのだそうだ。
確かに空手の人って、そういうところあるんだよなー。変な部分のしがらみも多いし。しかし外部のアーティストはともかく、自分とこの
選手塚本の扱いはちょっと大袈裟すぎないか。多分スターを作ろうとするテレ朝の差し金という気がするのだが。彼はは確かに
凄い選手だが、あくまでも出場者の一人でもあるはず。それにあの負け方(準々決勝で一本負け)を見ていると、生身の人間が
闘うことの恐さをどこか忘れていたのではという気がしてならない。
などど色々書いたけれど、あくまで選手個人の戦いぶりには拍手を惜しまない。逢坂祐一郎の腰の据わった組み手は素晴らしく
今回は優勝かと思ったのだが、そこは鈴木の頑張りが勝っていた。これぞ底力。
マリリン・マンソン コンサート (Grotesk Berlesk Tour 2003)【9月27日(土)/NKホール】
幾つかのナンバーはカッコいいなと思っていたが、正直それほど熱心なリスナーではなかった。しかしたまたま聞いた
新譜がよかったことと、ボンウリング・フォー・コロンバインでのインタビューの印象が気になって会場に足を運んだ。
映画の中では、マリリン・マンソンが自分の楽曲がコロンバイン高校での銃撃事件のきっかけになっているなど保守層の
批判を浴びていることに関して、知的で筋の通った受け答えをしている。これに驚き感心した人も多いようだが、考えて
みればああいう音楽やパフォーマンスを繰り広げることはそれなりのインテリジェンスを要求するはずで、クリードやリンプ
ビスケットとはちょっと違うタイプのミュージシャン(というかパフォーマーと呼んだ方が俺としてはしっくりくるが)のはずだ。
ライブは非常に計算されたもので、曲そのものを楽しむというよりも入念に築きあげられたマリリン・マンソンの世界観に
酔う、という印象。しかしかなりイケてます。ステージに作られた、「ミッキー・マリリン」とでもいうのか、ディズニーのネズミを
ネタにしたオブジェは会場がディズニーランドの隣だったからなのか、はたまた単なる偶然か。風船を売っていたら買って
帰りたかった。やるなぁーマリリン。
しかし久し振りにロック・コスプレ風のファンが溢れるコンサートだった。くわえて年配客(自分もその一員だが)を結構多く、
ベテランロックファンなのか、ボーリング・フォー・コロンバインの流れなのか、観客のバラエティを見るのも楽しかった。しかし
約一部、X-Japanとかと間違えてないか、つーのも居ましたが。
サーチ・ギャラリー 【9月21日(日)/Saatch Gallery】
移転後の住所がわからなくて、他の美術館でも見ようとウォータールーの駅のそばを歩いていたら、なんとあのロンドン
大観覧車のすぐ側にそれはあったのでした。目玉のデミアン・ハーストをはじめ、ニューヨークのブルックリン美術館では
当時のジュリアーニ市長が見せるべきではないと大噴火したクリス・オフリーの"The Holy Virgin Mary"(聖母マリアが
黒人で、ポルノグラフィティの切抜きが多数使われているのにくわえ、素材に「牛の糞」が使われている)など、ある意味
では世界一スキャンダラスな現代美術館だ言えるかもしれない。しかし絵とかアートとかいう類の物が少しでも好きなら
必ず行くべきギャラリーだと思う。俺がキリスト教徒でないことは、多分関係ない。自分の右脳と左脳の付き合い方をぐら
ぐら揺さぶられる気持ちよさがというか妙な感じが存分に味わえる。
最近、大抵の現代モノの美術館は白くてだだっ広いスペースに作品を展示しているが、このギャラリーはCountry Hallと
呼ばれる伝統的なデカイ建物に入っている。ひとつひとつの部屋には暖炉の跡があったりするのだが、そのすました英国
風の佇まいと人によっては眉をひそめまくるような作品群の取り合わせは妙に愉快だ。入場料£8.5はちょっと高すぎる
(1,700円位?)けど、コンテンポラリーアートっておもろいやんけ、とまあ堪能はさせられた。
アイルランド現代美術館 【9月19日(金)/Irish Museum of Modern Art】
引き続き現代ものへ。最新の展示が知らないスペインのアーティストだったりしていまひとつ入っていけなかったが、
別館で行われていたCOBRA(当時その運動が展開されたコペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダム文字を
組み合わせて作られた)の展示は面白かった。20世紀の主な現代美術はそれなりに見たつもりだったが、まだまだ
何も知らんということを思い知らされらた。幼児的だが幼稚ではないプリミティブさ、ワイルドネスはデビュッフェやバス
キアを連想させる部分もあるが、もっと荒削りな新鮮さ−その荒削りさはある種のもろさにも通じるのだが−を感じさ
せる。国立美術館同様、世界の大御所系の所蔵数とかはともかく、小さいながら個性のある展示が行われていることは
日本の関係者にも参考になるのではないだろうか。お節介だとは思いますが。
アイルランド国立美術館 【9月19日(金)/National Gallery of IRELAND】
初めてのアイルランド。で、まずはベーシックなところで「国立美術館」から。やはりパリ、ニューヨーク、ロンドンなどの
大都市と比べると小規模ではあるが、まずは17世紀ヨーロッパから現代まで絵画のひと通りの流れを見ることができる。
フェルメールやカラバッジオ、ピカソなどの巨匠ものも数点あるのだが、俺が惹かれたのはアイルランドの画家ジャック・B・
イェーツの作品群だ。イェーツと言えばノーベル文学賞を受賞したウィリアム・B・イェーツがまず思い浮かぶが(読んでない
けど)彼はその弟。肖像画家だった父の元、芸術家一家の一員だった。自然豊かな土地スライゴーで育った彼の絵は、当初
その環境を反映したものだったが、19世紀後半からフランス印象派の影響を受けて徐々に変化をみせていく。個人的には
マチスの色とゴッホの筆遣いが合わさったような印象がある。残念ながらその二人ほどのパワーは勝ちえていないが(それゃ
比べる相手が凄すぎるか…)鋭さと初々しさの重なったその表現は、衝撃的ではないにしても充分魅力的だ。
もうひとつ、これはアイルランドの他の施設にも共通しているのだが、スタッフが非常に親切である。アメリカの多くの美術館の
ようなビジネスライクな態度ではなく、作品やその施設を本当に大事にしている気するのだ。警備のおじさんに展示の場所を
尋ねると「ところで○○の絵は見たかい?」と笑顔で聞いてくるあたりは、誰かの家で絵を見ている感じだ。小さいながらも
温かくて居心地のいい美術館でありました。
Futute
Fighter IKUSA4 〜宴〜 【8月30日(土)六本木Velearre】
知らない人にはちょっと説明が難しいけど、まあK-1みたいな(と話ができるくらいになった、というのはK-1のひとつの
功績だろう)イベントです。細かいルールで違いはあるのだけと、いわゆるキックボクシングのルール。急に誘われて
行ったのだけど、やっぱり生で見るのはなかなかいい。試合自体は、メインの小比類巻のふがいない戦い−こいつは
蹴りのキレといい、肉体的ポテンシャルはピカイチなのにハートが…−の他はなかなか充実。ベルファーレという空間
(いま何世紀?って感じはあるけど)のアンダーグラウンドな感じも相まって面白かった。(個人的には後楽園ホールの
方が好きだけど)
途中で選手を2名出場させたりいろいろ協力しているシュートボクシングのシーザー武志会長がマイクを持った。団体の
壁にこだわらず選手に活躍の場を与えたい、というIKUSAの主旨に賛同を述べていたが、「命を賭けて闘う若者を応援
したい。いくらやってもせいぜい10年、それをいい思い出としてあげたい」という言葉には感動した。命を賭けるという
定義(価値のあるなしではなく)に疑問はある。死亡率で言えばモータースポーツの方が高いもしれないが(データは
ないけど)、彼らは「ただ人より早く走りたい」わけで、生き死にを賭けているわけではない。…が、自ら選手として闘い、
また団体を育ててきたその言葉には重みがあった。人は何年必死で生きていけるのだろう。
しかしリングサイドの関係者、迫力あったというか…ダークスーツとオミズなお姉さま方との組み合わせは最強ですね。
i-pod 【8月31日(土)有楽町ビックカメラ】
えーっと、これはアップルのイベントとかではなくて、ただ例のi-podを入手した、という話です。なんじゃそれ?と
思われるかもしれませんが、これはちょっと面白い体験でした。何かというと、そのパッケージ。本体は厚さ1.5p
ほどでほぼ名刺大の大きさなのに箱は一辺が約15pの立方体。付属品などが入っているにしてもちょっと大き過ぎる。
で開けてみると、その感じはデジタル機器というよりも時計かアクセサリーの包装の雰囲気に近い。どういうことかと
言うと、ちょっとしたストーリーになっている気がする。でかいサイコロのような紙の箱は真中からパカッと開いて左右
それぞれに本体、マニュアルや付属品が入っている。発泡スチロールの仕切りは素気なくはあるけれど、奥から物が
いろいろ出てくる感じはちょっとしたおもちゃの缶詰め(古いな…知ってます?)イヤホンのパッキングは使い捨ての
注射器のようというかSFレトロ的というか、不必要に遊んでます。
アップルという会社の、ある種スノッブな匂いのするファンシーさにはちょっと違和感がある(ちょっとはしゃぎ気味と
いうか)のだけれど、こういう演出はうまいな、と思ってしまった。エコロジー的問題も無視できないが、こういう感覚を
失くすのはやっぱりマズいんじゃないか。賢く、楽しくいかんとね。
Patti
Smith: Strange Messengers & Cross Section 【8月1日(金)パルコミュージアム】
ロバート・メイプルソープと付きあっていた1960年代、アートスクールの学生だった頃のドローイングから911に
際しての制作物、それから古いポラロイドで撮った身の回りのオブジェ。特筆する作品があるかといえばそうとも
言えない。むしろパティ・スミスはこうしてできている、といった彼女を知るための展示としては興味深い。数年前
ニューヨークのジャパン・ソサエティで、フランク・ロイド・ライトが収集した浮世絵(海外の個人コレクションとしては
間違いなくトップクラスの量と質)や日本の着物などの展示を見た。建築関連のものは少なかったが、彼のパース
ペクティブを知るうえでは貴重で意義深いものだった。今回はそこまでの深みは感じないものの、かつて”Because
The Night”をコピー(あのギターソロはシンプルだが、あの感じを出すのが結構難しかった)しちゃったりした思いでも
あって、楽しめる展示ではあった。その辺がパルコミュージアム的な気もする。
911関連の作品、およびアメリカ主義に傾きつつあった国民感情への疑問を呈した彼女の文章には考えさせられた。
正直言って彼女自身も答をだしあぐねている(そんな簡単な問題ではないし)感があるが、やっぱり「平和でいこう、ピース!」
で済ませられない重苦しさ−これを風化させないで問い続けることはある意味アートの意義であり使命なのかもしれない。
真珠湾、原爆、ベトナム、そして911(もちろん他にもたくさんあるのだが)。納得いくまで−そんな日はこないかもしれないが
−創り続けること。そんなヒントをもらったような気がする。
学生時代、バイトしていた本屋で、入ってきたトム・ヴァーラインとひと目で恋に落ち、といったエピソードの数々。しかし
ミューズである自身は彼女を満足させなかった。いそうでなかなかいないタイプの女性として残る人かもしれない。
田中一光回顧展 【7月24日(木)東京現代美術館】
この日に見に行ったのは、生前親交の深かった安藤忠雄のトークがあったから。我ながらミーハーでやんす。同様に集まってきた
カルチャー好きオヤジ、おばはんや建築、デザインを学ぶ学生たちは、かなりの確立で安藤氏目当てと見えた。ちょっと悲しい。
自分のことを棚にあげているようだが、俺はこのトークなしでも来るつもりだったもんね。(なんか言い訳くさいな…)
ともかく、「静かな巨人」なのだな、と思った。この人の作品は、丹念に作られ飾られている日本刀のようだ。そのデザインは、人を
殺めた怪しさは持っていないけれど、とんでもなく完成された美しさを携えている。高橋睦郎氏の「そのまま語るには田中さんという
存在は凄すぎて、比喩に頼るしかない。彼はどこから登っても(グラフィックデザイン、タイポグラフィー、ファインアート等のさまざまな
活動の幅)きれいな風景を見せてくれる。そして登りきった時の眺望は例えるものがない」(ちょっと違っているかもしれないけど、
あくまでも俺の印象で)という一文は、本当に深い。
やっぱり物を作らなくては。単純計算で、3日に1枚のポスターを作っていた計算だが、その緻密で妥協のない仕事ぶり(一緒に
働いたスタッフは大変だったはずだ。)でその制作量。振り返ってみると、ただただ身が縮まってしまう。
安藤忠雄の話はそつなくまとまっていた。(なかなかよい話ではあったが)つぼを心得た文化漫談的ネタに客は無邪気に笑っている。
したたかなおっさんやなぁ、という感が一層強くなった。(否定しているのではない。今の彼の扱われ方に対しては、正しいスタンスを
とっていると思う。)
レオン・スピリアールト展 −ベルギー発。知られざる神秘空間【5月23日(金)ブリジストン美術館】
よく知らない(というか初めて知った)作家だったけど、新聞のレビューに出ていた「堤防の女」という絵が気になって行ってみた。
ある種の既視感を感じる作風。ミュシャ、ムンク、シーレなどのテイストをちょっと感じる部分も。海を舞台にした一連の絵は印象に
残った。「少女と犬」は水平線と浜辺に立つ少女、その側の犬の構図と濁っていてダークなのだがどこか清涼感を感じる色彩が魅力的。
全体的にメリハリを抑えた色調だけに、構図にテンションのある作品(浜辺の階段に座っている女とか)には引きつけられた。実は
ブリジストン美術館は初めてだったのだけど、清潔でなかなか良かった。常設展のマチスとピカソ(ちょっとだけど)もうれしい。
でも1,000円って高いな、ちょっと。
荒木経惟 花人生展【5月8日(木)東京写真美術館】
花のエロチシズム、というのは既に言い古された概念かもしれないが、アラーキーの写真はその血の通った意味を
見せてくれる。間違いなく彼は天才だと思う−だから、陽子さんの話と切り離して作品を見せてもらえないかと感じた。
安藤忠雄建築展2003 /再生−環境と建築【5月7日(水)東京ステーションギャラリー】
ギャラリーに着いたら、いきなり出てきた安藤氏本人。どうやらサイン会とかあったようだった。ステーションギャラリーは
順路が整然としていてお役所っぽいのだが、建築ものを見るにはいいかもしれない。ひとつひとつのアイデアや完成度よりも、
なぜこんなプランなのか、という発想の土台−哲学のようなものが建築、特にコンペでは問われるのだと感じた。その意味では
安藤氏は発信力があるのだろう。直島のギャラリーや施設には感銘を受けた。もう少しその発信力を見続けて生きたい。
Pearl Jam 【3月3日(月)日本武道館】
長かった。疲れた。でも、気持ちよかった。10年近く押入れにしまってあったグレコのレスポールを出して弾きたくなった。
忘れていたロックの空気を補給した夜でした。