☆日々の雑感


態度でっかち (2003/11/30

選挙が終わってみると、マニフェストの存在感が急激に薄れていった気がするのは、それも新手の掛け声にすぎなかったと言うことなのだろうか。しかし各候補者の話を聞いていて、「一所懸命」とか「粉骨砕身」「全身全霊で」という言葉に接するときほど力が抜けることはない。そういった「姿勢」演説(施政じゃなくて)を聞いていると、言葉たちが傘の上で「いつもより沢山まわっております!」と叫んでいるようだ。

政治以外の各界の姿勢演説にも、食傷気味というよりもはや食あたりです。その内容も一所懸命系(渾身を込めた作品とか)、過激系(ここまで言うかとか辛口だとか)、前向き躁状態系(きっと貴方にもできる!とか)等々バラエティに富んでいるが、問題はどれだけオリジナルで、どれだけ深さがあるかということのはず。ややもすると仕事の内容や作品の質よりもその人間のキャラクターで判断を進めていくと、そこに残るのは人気投票文化でしかない。ヤンキースの松井は新人王の投票には漏れたが、日本人メジャーリーガーたちはある意味腕一本で勝負、を余儀なくされている訳で、金に飽かせて大砲を集めている巨人の在り方などよりよっぽど爽やかだ。態度とかよりも、中身で示そうよ。なんか無口で腕のいいオヤジの店で酒が飲みたい年末である。

腑に落ちんぞ、中国留学生問題/その2 (2003/11/8

「メディアは何をやっているのだ」と思っていたら朝日新聞にその辺の背景の記事があった。当事者の留学生たち自身は、当初
直接謝りたいと言っていたのだが学校側が「もうその段階ではない」と押しとどめたこと、日頃日本人学生へのある種の特別扱い
みたいなことがあり、中国の学生側にフラストレーションがあったことなどが書かれていて多少構図が見えてきた。問題はまだまだ
解決されないまま残っているが、今回考えたのはちょっと別のことだ。もしあの留学生たちがアメリカ人だったらどうだったのだろう。
多分文化の誤解についての基本的な謝罪をしつつ、両国の友好を自分たちの文化的尺度で表現した、お互いこの壁を越えて共に
歩もう的なコメントが発せられるのではないだろうか。それがいいと言っているのではない。そういう対応がイメージできていることを
ちょっとは学習した方がいいとは思う。この問題、ややこしいのだけれど、考えるヒントとしては貴重でもある。そのためにも、もっと
情報を。えーっとメディアの皆さん、お代わりお願いします。

腑に落ちんぞ、中国留学生問題 (2003/11/4

中国の大学に留学していた日本人学生のパフォーマンスが侮辱的であると、抗議のデモが起こった。問題のパフォーマンスを
見たわけではないのでその侮辱度合いについてはコメントできない。多分こういうものは、内容そのものよりも前後の雰囲気の
方が大きなファクターになっていることも考えられる。(他の出し物は伝統的な、いわゆる真面目なものであったようであるし)

俺が気になるのは、舞台の後で留学生の寮に押しかけて「お前は日本人か」と問い詰め、暴行を加えた連中だ。パフォーマンスに
抗議する権利は、当然ある。しかし当事者でもない学生を日本人であるというだけで殴る権利はどこにもないはずだ。不思議なのは
新聞等のメディアがこのことに言及しないこと。中国問題にコメントするとヤバイと思っているのだろうか。もちろんメディアは情報を
伝える機関であって世論を導くものではないが、必要な情報やさまざまな見方をを示す義務はあるはずだ。その他人事ぶりに、
電車の中で立っているお年寄や騒ぐガキに出会ったときの「意識的知らん振り」の匂いを感じる。

映画作りは祭りなのか。 (2003/11/1)

先日の朝日新聞のインタビュー記事。「バトルロワイヤル2」を監督した深作健太が製作中に世を去った父、欣二の言葉として
取り上げていたものだ。深作欣二が言うのなら、何も言いますまい。映画作りの中で腹の底から生まれてきた言葉なのだろう。
しかし息子はその意味を本当にわかっているのか?俺はどうも疑問である。

もう10年も前だろうか、高田馬場の安い居酒屋で飲んでいたら深夜どやどやと10人ほどの集団がやってきた。30半ば位に見える
リーダー格の男と20台半ばから後半のラフな格好の兄ちゃんたちだ。乾杯がすんでしばらくたつと、リーダー風の男が説教を始めた。
「いいか、映画ってものはなぁ…」細かい話は覚えてないが要はザ・精神論のオンパレードで、聞いていて面白い話ではなかった。
(説教と一概に言っても、なかなか味わい深いものもある。話す人間の程度や意識で全く違うものなのだ)

もうひとつ、自分の経験から。広告のためにあるバンドのコンサート会場に撮影に行った。そこしかスケジュールをもらえなかったからだ。
ライブ前夜の会場は準備でごった返し、幾晩も徹夜を続けてたのであろう若いスタッフは隅っこで埃まみれの毛布にくるまり災害現場の
ような状態で眠っていた。そんな中でのCM撮影、段取りに間違いはなかったのだが誰かに話が通っていなかったようで、現場を仕切って
いるスタッフの一人が抗議の声をあげた。その内容は実質的な作業の進行に関るものではなく、「カラダ張って、夜も寝ずに頑張っている
スタッフの気持ちをどう思っているのか!」ということに終始していた。もちろんキツイ状況は理解しているし、決して彼らをないがしろに
してはいない。原因のはっきりした具体的なミスに対して精神論でいきり立つ体質は芸能界には多々見られることではあるが、このダンナ
終いには「私たちはみんな○○(アーティスト名)を愛していて、損得抜きでやっているんです!」で締めくくった。損得抜きならボランティア
だろうと思うけど、何を言っているのか自分でもよくわかっていない風だったので、向うのミスもあるのだが立場もあってその場は平謝り。

で何が言いたいかと言うと、映画でもテレビでも、場合によってはCMでも現場には独特の熱気のようなものがあって、これをモノ作りの
情熱と狂気が渦巻いている、と勘違いしちゃうことが結構あるのだ。スタッフと喧嘩しながら作った、というのは格好よくも聞こえるし、実際
喧嘩するくらいの思いの強さは必要なのではあるが、時として自己充足―俺はこんなに燃えてやっているぜ―のための無意味な喧嘩も
ないわけではない。地味ではっきり物を言わない、従って現場の熱が盛り上がらない監督が誰よりを深く作品のことを考えていることも
珍しくはない。物作りの恐さというのは、どんなに情熱的な雰囲気の中でつくってもダメなものはダメ、という結果主義だ。世の中で高い
評価を得た仕事に関ったにも関らず、「あのスタッフとはもう二度とやりたくない」という傷を持ち帰る人間もいる。映画作りは、決してお祭り
なんかじゃない。映画を作れるということだけで満足できないのなら止めた方がいい。それでも作り続けていく者だけに「あの撮影のことは
忘れられない」という強烈で甘美な思い出が気まぐれなご褒美として与えられることがあるのだろう。なんだか禁断っぽいけどね。

吉川美代子、再び。 (2003/10/28)

先週金曜放送の
CBSドキュメント(TBS)から。最初のトピックはアメリカで若い層にも広がっているドメスティック・
バイオレンス。ある少年はつきあっていたガールフレンドを刺し殺して刑に服している。「女性の社会進出が日本に
比べて進んでいるアメリカでこういうことがあるとは驚きです」―この人は本当にジャーナリストなのだろうか。広がる
貧富の差と教育水準、そしてそれとの関連性もあるであろう青少年の犯罪傾向は、普通に新聞を読む人間なら
誰でも知っていることだ。もうひとつのトピックは人種差別犯罪の問題。黒人被害者の家族が被告の死刑判決に対して
「自分は死刑反対。刑務所の中で犯した過ちを悔いて欲しい」というコメントを発表したことに対して「随分寛容なんですね」
―それは寛容かどうか問題ではなく、信条の問題だ。その論旨で行くと、死刑は報復でしかない。

この人(に限ったことではないのだけれど)のお嬢さん的似非ジャーナリズムには嫌気がさす。もちろん男もいるので
その場合は「お坊ちゃん的」だけど。鋭いコメントを出すことと、幼稚な感情論を遠慮なく述べることは全く別物だ。
ピーター(池畑慎之介じゃなくて)、なんとか言ってくらさい。
相川七瀬がロックの女神だって、へえーっ! (2003/10/27)

先週の朝日新聞、ある書評コーナーの書き出しで相川七瀬をこう説明している。一体いつからそうなったんだ、
俺は聞いてないけど。ジャニス・ジョプリンにコメントを求めたい。まあ白井貴子とか渡辺美里とかもロックシンガー
なのだから、当然スパゲティ・ナポリタンはイタリア料理なのだ。まあ大御所「ブルースの女王、淡谷のり子」と
同じことなのだろう。ロバート・ジョンソンに聞いても彼女のことは知らないだろうし。こうなると、そのうち「ラップの
クイーン、○○○」も近いうちに登場だろうか。それが誰なのか、ちょっと
楽しみではあるのだけれど。
おひさまのプライオリティ (2003/10/19)

10月19日の日曜は、久々に気持ちのよい天気だった。もう朝夕は肌寒く、晴天と言ってもTシャツ短パンでは
ちょっとはばかれる陽気だが、秋の日曜としてはヤンキースが負けたこと以外は(松井のファンではなく、一応
我がニューヨークのチームつーことで)完璧であった。本来なら外で身体を動かすなり缶ビール持ってどこかの
公園でぼーっとするなりしていたところだが、実際そうとばかりもいかない。それこそ野暮用ってもんだ。

で、思った。今やらなくちゃいけないことは、この天気を放り出してしなくてはいけないことなのか?後でもいいん
じゃないのか?他の人間でも出来るのか?貴重な週末の貴重な晴天と秤にかけたらどっちに傾くのか?

と考えていたら整理がついた。ザ・ホワイト・ハウスの最終回をやっていたら、または大事な友達から相談の
電話が入っていたら、多分家の中にいるだろう。前の晩ビデオに録画した新日本プロレスの試合はつまらなくて
俎上にものらない。この天気をあきらめてもやるべきことなら、大事なことだ。頑張ろう。そうでなければ適当に。
晴れた日の時間の過ごし方は優柔不断な自分にとっては明解なものさしのひとつだ。で、やることがこのサイトの
更新だったらどーするのか?それは読んでくれる皆のため、つーことで…


クレーマー、クレーマー。 (2003/09/12)

昔読んだ村上春樹のエッセイの中に、クレームの手紙について書かれたものがあった。この人は一般的な
受け止められ方ではどうか知らないが、かなり反骨マインドの強い人だ。若い頃は色々なものに抗議しながら
生きてきたような気がする。で、このエッセイ、あるレストランで非常に不愉快な扱いを受けたことを例にとって
クレームのつけ方−主に手紙−について語っている。それによると、

・感情的にならない。冷静で客観的な評価、判断であることを匂わせる。
・ポイントを絞る。坊主憎けれゃ、ではなく問題だけにフォーカスする。良かった点を褒めたりするのも手である。

そんな記述の後に、彼が実際に書いた手紙が載せてあった。(もちろん固有名詞は抜きで)村上氏は、それを
書いた時点で気がおさまり、結局出さなかったそうだが、確かに上記のコツを満たした訴えかける文章だった。
もし自分がマネージャーだったら飛んで言ってお詫びをしただろう。

自分も最近、そういうものを書く機会(?)に出くわした。俺もつい文句を言っちゃう方だからか、村上氏の文章は
しっかり記憶に残っていた。くわえて少々齧ったビジネス英語のテクニックでは、こういうクレーム作法(?)なども
上手に整理されていて(こういう実利的な知恵−決してケンカにならず利益を得るノウハウは実に発達している)、
クレームのつけ方をイメージする役に立ったような気がする。村上氏の意見に加える点があるならば、

・感情的になりすぎてはいけないが、一箇所訴えたいことを切実に。かえってその方が効く。
・相手が商売であれば顧客として(この店のファンのひとりとして、とか)公共機関などであれば一市民として
 (この街に住んで10年以上、とか) 自分がそういう扱いを受ける立場ではないことを示す。

といったことも挙げられるだろう。しかし言っておきたいのは、あくまで健全なクレームを目指すこと。言わずに溜めて
おくのは自分のストレスにもなるし、相手にしても改善のチャンスを失くすことになる。(そういう意味で本当に相手を
見限ったならば、無視するか思いっきり怒鳴り散らすのもひとつの選択ではあるが…)クレームの対応ひとつで相手の
印象は良くも悪くもなる。自分の例を言うと、

・あるイベントでの窓口の対応についてメールを送ったら、主催者本人から返事が来て、謝罪と次回のディスカウントを
 申し出てくれた。
・ある公共施設で、受付の態度についてのクレームを備えつけの意見箱に入れたところ、責任者から謝罪と当事者に
 再教育を受けさせる旨が述べられていた。
・あるサイトの文章に意見を述べたら、メールのやり取り数回の後で互いの主旨を確認して一件落着。

具体的に何をどう書いたかはここでは控えるが、もし何かの役に立ちそうであればメールをください。なんて落ち着いたこと
書いているけど、相変わらず毎日なんか気に食わないことを見つけては小爆発を繰り返して、自分の器を恥じています。
そういえばこのサイトも、世の中への漠としたクレームみたいなところから始まったのかもしれないなぁ。(今はもうちょっと
前向いてる気がするのだけど…)


WTC (2003/09/11)

1999年、ニューヨークで一年目に住んだアパートの窓からは、テロで崩壊した世界貿易センターのビルが
よく見えていた。建物の6階、南に面した大きな窓から眺めると、ふたつのビルが寄り添うように立っていた。
その写真は今も俺の机の前に貼ってある。

過剰になることを避けてきたつもりだ。やみくもな感情の発露に流されることは、亡くなった人たちを悼むこととは
違う。フセイン政権は終わるべきだったと思っているが、一連の戦闘にはまだ巨大な違和感がうずまいている。

911はなぜ起こったのか。考え続けることが残った者の役目だと思う。Never forget, and imagine.

正義感の強さは思い込みの強さだったりする。 (2003/08/16 S)

金曜夜にTBSで放送している「CBSドキュメント」をよく見る。アメリカCBSの「60Minutes」か「48hours」の
翻訳版で現在はピーター・パラカンと吉川美代子がコメンテーターを務めている 。以前番組でTVゲームの
話題を取り上げたとき、シム・シティというゲームの話が出た。ネット上に作られた架空の世界で、自分が
何らかのキャラクターに扮して参加する一種のロールプレイイングゲーム。アメリカではかなりメジャーだ。
吉川氏はそれを取り上げて「そういうゲームに熱中するのは、現実に満足していないか逃げているのでは」
という現実逃避のレッテルを貼る。

本当にそうなのだろうか。確かに現実はゲームほどドラマチックではなくおまけに苦労とかリスクとかもついて
くる。しかしゲームに熱中することが即現実逃避というのは安易過ぎないか。仕事を忘れてスポーツで汗を流し、
気分転換をするのとどこが違うのだろうか。

吉川氏は最近の放送でもアメリカのCG制作のレポートを見て「以前は、一所懸命に手作りしているものに
対してコンピューターで楽にやってしまうなんてとんでもないと思っていた」とコメントしている。結果的に彼女は
CGクリエーターたちの情熱や努力に感嘆しているのだが、そのコメントはあまりに単純すぎないか。ボタンを
押せばコンピューターが勝手に作ってくれると思っていたのだろうか。

「思ったことをはっきり言う」「辛口で妥協を認めない」というのは素晴らしいことだ。しかしそう言って悦に入る
人間たちの少なからずが単なる決めつけ、思い込み、他者への想像力不足からものを言っているように思え
てならない。何事も曖昧に、なあなあにしておくのがいい、というわけではない。何か言うときはそのリアリティを
きちんと考えるべきだ。井戸端会議ならともかくジャーナリストとかコメンテーターとかの肩書きで発言をするなら
その言葉の重さを知るべきだ。

正義を守ることは必要なことだ。しかしその正義は本当に正義なのか?イラクを攻撃することの正義は、誰が
決めているのか?いま大事なことは安易な「正義の味方」ではなく、視界の深い「正義の見方」だ。

未完成が好きだ。 (2003/08/10 U)
これは銀座にある改修中のビルの一角。新しいブティックでもできるのかもしれないが、
コンクリート剥き出しの壁やぶら下がった配線の束はどこかモダンアートのインスタレー
ション(ちょっと安易かな…)のようで、このままでも面白い。昔から建築中のビル−鉄の
枠組みと頂上に聳える巨大なクレーン−や施工中の家を見るのが好きだった。完成して
いない物のカッコよさに魅かれてしまうのは、いい歳してまだ未熟者だからだろうか?

傲慢と鈍感の間 (2003/07/30 R)

ここのところ政治家たちの確信犯的な失言が取りざたされることが多いけれど、その発言に内容の是非とは別の
苛立ちや反感を覚えることはありませんか。
はあります。正しい正しくないとは別に、彼らの態度にやり切れない
ものを感じることがある。こうした人間に共通しているのは、自らの言葉を受け止める人々への想像力の貧しさだ。

「国民が騒ぐのはマスコミのせい」と言わんばかり(実際言ってるけど)の彼らのコメントは、ホント俺たちを馬鹿に
している。彼らにとってメディアとは、単に自分の目先にいる記者たちのことなのか。新聞記事やカメラの向うに大勢の
人間がいるのが見えてないのだろうか。

日本と違って情報操作の重要性を知っているアメリカの政治家のような狡さ−これはこれで厄介だ。しかしその狡ささえ
備えることなく、聞きたい声だけ聞いている彼らの幼稚な傲慢さ、そしてそれを支えている救いようのない鈍感さに、ちょっと
言葉を失いそうだ。(でも書くけど)あ、読売新聞のオッサン、あんたも入ってるよ。


美しきバカものども (2003/07/19 S)

先日テレビのボクシング番組で、アルツロ・ガッティVSミッキー・ウォードというスーパー・ライトの試合を見た。タイトルマッチ
では
ないのにメインイベントとなる人気のカードである。その人気は両者の壮絶な殴り合い。二人とも高水準のテクニックを
持っているが
ファイターとしての熱い血が時折それを越えてしまう。過去の2戦の戦績は両者一勝一敗だが、前回は若い
(現在31歳)ガッティが
足を使ったクレバーなファイトで判定勝ち。一方いま37歳のウォードは、勝っても負けてもこれが最後の
試合となる。


試合は予想通り、若いガッティがスピードとテクニックでベテランのウォードを翻弄していく。軽く放ったジャブもそのスピードと
的確さで
ウォードのガードを抜けて顔面に届いている。おっさんやばいぜ、と思っていると後半いいパンチが入ってウォードが
ダウンを奪う。この
まま逆転かと思われたが、体力の限界は既にきていたようで後一歩の詰めができない。一方ガッティは切れ
味のいい攻撃が復活、
最終ラウンドを迎えた。判定は順当にガッティ。目一杯殴りあったふたりがリング上で抱き合う場面は、
わかっていても美しかった。


しかしまさに殴り合い。解説者が「殴り合いというのは、殴られあいですから」という言葉に妙に納得。あまりの凄さに、見ていて
思わず
「お前らバカじゃねーのか!」と呟いてしまった。これは最大級の褒め言葉である。なんか熱かったなぁー。俺もバカじゃ
ねーのか、と
言われるくらい突っ込んでものごとやんなきゃな、とシンプルな感慨を持った。あれがテレビではなく後楽園ホール
だったら、きっと「シュッ
シュッ」とかシャドーボクシングしながら出て行ったんだろうなー。


無責任ゴーゴー! (2003/07/13 U)

植木等の無責任男は、いま見ると全然無責任には思えない。格好だけで意味ないことをパスした結果、物事が
上手くいっているというのは結構なことじゃございませんか。一方で日頃は重々しく、またもっともらしく振舞う政治家や
経営者たちの、問題発生時の身のこなし。あれこそ無責任一代男(女もいるけど)なのではないか。

「おまえ、責任取れるのか!?」ある上司に言われたことがある。彼のやり方とは異なる方法で仕事を進めようとしたときだ。
その件に関しては判断に自信があったから、ひと言「はい」とだけ答えて作業にかかった。実はどう責任を取るのかなど考えて
いなかったのだが、逆に責任の付きまとわない仕事などあるのか、という疑問が沸いてきた。何をしたって責任とやらは付いてくる
ものじゃないのか。従順であることで責任が回避される世の中って、ちょっと情けないっす。

ともかくいい年して(いい年じゃなくても、だけど)何かやるときは、好むと好まざるに関らずもれなく責任が付いてくる。
だったらガンガンいきましょうぜ、後で人のせいにするのは無しとして、と植木等は僕らに言っているような気がする。
えっ、そんな大袈裟なこと言ってない?言ってない…そうですか、こりゃまた…(寒くなってきたので以下略


あなたも起業でパブルスター! (2003/07/05 S)

「今どき一円で何ができるというのだ。」「それがダンナ、会社が作れるんですよ。」というのは本当の話で、

平成15年2月から会社設立に関する法律の変更によって資本金が一円でも会社組織の設立が可能に

なった。(幾つか制限はあるのだが)ということも関係しているのか、最近「会社にしがみつくより自分で起業」

というムーブメントを感じる。男性週刊誌の「女性の本音、こんな男に誘われたい」みたいな記事では

若い女性やOLに評判いいのが(この価値観自体トホホではあるのだが)外資系エリートと青年起業家。

かつての大企業(特に商社)やマスコミ等の業界(そろそろ実態がバレている)のランクはかなり下がっている。

 

それはどうでもいいとして、「俺も自分で起業して稼ぐぞ!」というその意気やよし。しかしその流れに、どこか

かつてのバブル期の株式、不動産ブームに重なって見える部分がある。一時期「お金があるのに株やらない

なんてバカじゃない?」「こんないい物件買わないあなたは狂ってます。」(こういう煽り文句、ホントにあった)

 

寄らば大樹、ではなく自分の力で生きていこうとする精神は、とても尊いことだ。他の誰でもない、自分という

個人でいるために。だからこそ起業をただのブームにしてしまうことを警戒したい。会社の一員で在り続けること

だって、個人でいるための立派なオプションである。社会制度として起業の壁が低くなることは大歓迎であるし、

そのノウハウを共有できることも素晴らしい。(一部の胡散臭い起業カリスマの増殖は副作用としてあるとして)

だからブームじゃなくて、ホント個人で考え決めることなのだ。メディアは「若き成功者」を取り上げるばかりでなく

必ずその裏に存在する失敗もきちんと伝えるべきである。だいたい個人の意思と実力が問われる起業を、皆やるから

俺もやる、つーのおかしくない?

 


ブラボー、オンナの個食。 (2003/06/13 F)

再び外食ネタ、でもこれは極めて個人的な話です。ひとりで食事している女の人を見た。彼女たちは、不断あまり

見たことのないタイプの魅力を持っていた。ここではそんな女性たち、ふたりほど取り上げてみます。

 

銀座のやや外れのラーメン屋に、遅い昼飯を食べようと入ったら、カウンターの一方の端っこで30前後と思しき

女性がひとりでラーメンを食べていた。まだ肌寒い頃で、深いえんじ色の薄手のタートルネックに、厚手の織りの

グレイのスカート姿。会社勤めというより、法律事務所かなんかで働いているような控えめで知的な雰囲気だった。

(勝手な想像だけど)そのラーメン屋ではライスがサービスでついてきて、お代わりも自由。沢庵を刻んだような

お新香があって、これもなかなかいける。彼女は坦々麺を食べながら、間にご飯に手を伸ばしている。いい食べっ

ぷりだ。ちゃんと働いて、ちゃんと食べているという感じ。そうするうちに彼女の茶碗が空になった。「すいません、

お代わりください。」すくっと茶碗を差し出す手のまっすぐな伸び方が潔かった。

 

もうひとりはかなり年配の方。巣鴨のナイスな定食居酒屋、ときわ食堂では混雑時には相席になることがある。

(店の人がちゃんと気配りしてくれるから、全く問題はないのだが)自分の近くのテーブルに、多分70を越えて

いるだろうお婆ちゃんが席に着く。「てんぷら定食ください。」とさくっと注文して、出てきたものをもくもくと、きちんと

食べる。背中は少し曲がっているようだったが、印象の中では「背筋をしゃんと伸ばして」見えた。きれいに食べ

終えると相席の男性に軽く一礼し、「ごちそうさまでした」と店員に声をかけ、レジに向かった。それだけのことで

あるが、すべての動作に「自分のことは自分でやる」という在り方が見えた。とてもインディペンデントなのだ。

 

彼女たちの食事風景が、何故こんなに印象に残っているのだろう。食べることは生きること、または生きるために

食べる、という当たり前のことをシンプルに、明快に見せられたからかもしれない。もしかしたら、全く俺の勝手な
思い込みかもしれない(よくあることなので)。しかしそのときの「オーッ」という感服感(回文みたいだけど)には何か
があるはず。では男はどうするのか。ともかくしっかり食おう。薀蓄とかやめといてさ。ある仕事の知り合いの「高級で
おいしいワインも好きだけど、必死で仕事をして、安いワインやビールを『旨いなぁ』と言える人生でありたい。」という
言葉が忘れられない。

 


放っておいてくれ、店長。(2003/06/12 R)

グローバルダイニング(ラ・ボエム、ゼスト、モンスーンカフェや権八の経営母体)社長の長谷川耕造氏によると、

「レストラン業は、お客様喜ばせ業」なのだそうだ。確かに。俺たちが店に行くのはただメシを食ったり酒を飲んだり

するだけではないからだ。「客がカップルか、仕事仲間か、家族か。カップルなら口説いている最中か、熱々か」を

判断して席を選んでもらうのはいいかもしれない。しかし余計なお世話じゃないか?一度三宿あたりで、深夜急に

思いついて集まった友人4、5人と店に入ったら、奥の奥、トイレに行くときは非常に便利なテーブルに通された。

歳でトイレが近いと思われたのが、みんなジーンズにTシャツのラフな格好だったからなのか。そんな細かいことを

やっている暇があったら、もう少し料理や飲み物のことを勉強してくれてもいいと思うのだけど。

 

もっとも問題なのは客の方かもしれない。そういうもてなされ方が、そんなに嬉しいことか。自分で見つけた店で、

自分なりの遊び方をすればいいんじゃないか。俺は接客のプロ意識を否定するものではない。しかしサービスの

本当の意味は、もっと深いところにあるんじゃないか。小ぎれいで多少メシが旨くて値段が高いマクドナルドに行く

理由が自分には見つからない−もっとも店の方も来てもらいたいとは思ってないだろうけれど。

 

社員の禁煙も推し進めている長谷川氏によると喫煙者は「無知蒙昧か意志薄弱か自己破壊主義者」だそうだ。

ということは彼の店に来る客の多くは、そういう人たちということになる。彼らの健康に感謝。

※6月7日土曜日の、朝日新聞「be」面の記事を参考にしています。


ヘイ、ベイビーからヨォ、メンへ / シャウトして歌いたい日本語 (2003/05/28 W)

映画「8マイル」を見た。バトルの決め手になるという点で、ライムの技術がこんなにスリリングなものかと
あらためて思った。日本のヒップホップもかなり盛り上がっているようで(よくは知らないけど)彼らにとっても
ライムの追求は重要なのだろう。しかし中には寒い感じがするものもある。韻を踏むための半ば無理矢理な
言葉の選び方を感じることがあって、その寒さにはどこか覚えがあった。

かつて日本のロックファンは、イギリス、一部アメリカの音に熱狂しながら、密かに自国のバンドを待っていた。
はっぴいえんど、ジャックス、四人囃子、クリエイション(竹田和夫先生!)や沖縄の紫等などいかしたバンドは
幾つかあったが、ルーツであるフォークミュージックの匂いや、借り物のぎごちなさは若干残っていた。それは
彼らの音楽性の問題ではなく−それは間違いなく素晴らしかった−日本人の血にロックというものがうまく
混じりきっていなかったのだ。ギターやベースの技術はあっという間に追いついても、リズムとボーカルの
パワーとドライブ感は、もうひとつ薄い。それ強調していたのが、「ヘイ、ベイビー」とか「イエイ、カモン」−なんか
遺影、家紋みたいだが−という掛け声だ。(上のバンドはそういうのなかったと思うけど)悲しく、寒い瞬間だった。
日本のロックはまだ冬なんだな、と思った。

結局日本のロックが様になるためには言葉も大きく関わっていて、ビートと言葉の接点が見えたことで音が
確立されたのだと思う。エレカシとかいいしね。逆にそういう寒さを持っているのは、もうB'zくらしかいない。
もしかしたら日本のラップは、これからが面白いのかもしれない。そう思うとちょっと楽しくなってきた。


「じゃないですか禁止令」をめぐって

佐藤雅彦の「毎月新聞」の最初の記事は、「じゃないですか」というものの言い方に異議を唱えるもの。異議を唱える、

というのはこの人に似合わないかもしれないけれど、実は結構硬派なところがあると思う。佐藤氏らしい、鋭い視点と

キュートな表現で書かれている。簡単に言うと「じゃないですか」と言う物言いの持つ、個人の意見や欲求をあたかも

一般的に認められた価値、意見であるかのようにすり替えていく気持ちの悪さ−堅く言うとその奥にある欺瞞(プチ欺瞞、

みたいな感じ?)を指摘したものだ。その通り、と納得。しかし自分でも時々使っちゃうんだよな。

きっと楽なのだと思う。論点をあからさまにしない気楽さがあって、それは「どーも」とか「ていうか」「みたいな」等々
の言い方に共通するものだ。日本人って物事をはっきりさせないんだよな、とかいう評論家もいるだろうが、特に日本人だ
けとは思わない。アメリカの若い世代はよく"kind of"とか"sort of"を話の中で使うことがあるが、意味合いとしては「〜的な、
みたいな」ニュアンスがあって、「ていうか、やっぱ俺的にはOK、みたいな感じ?」という気分は近いんじゃないだろうか。

"I kind of like a wild type of guy." 「私、なんかワイルドな感じの男の子が好きかも。」こんな感じ?(微妙に違ってたら

失礼。)

本当に親しい人間と喋るとき、「じゃないですか」を使うだろうか。相手の意図を探りながらもの言う必要がないのなら、

そういったクッションのような言葉は必要ないんじゃないだろうか。

 


「俺イズム」が出回っている

このサイト自体がそうかもしれないけれど、個人サイトの中には「ここは私の場所だから自分の好きに書く」という

スタンスで作られているものが多い。それはOK。情報やプライバシーに関わる基本的なルールが守られているならば、

何でもありだし、そうでなくっちゃ面白くない。しかし時々感じる、ひ弱な我の強さ。「俺のサイトだから、嫌なことは

聞きたくない。」という強気な逃げの姿勢。異なるものをシャットアウトして満足かもしれないけれど、何か格好良くない

んだよな。最初に俺イズム宣言をすることによって、意見やクレームに対しては「だから言ったろ、ここは俺のシマだぜ」

と言うつもりなのかもしれないけれど、こっちだって文句言いたきゃガンガン言うもんね、俺としては。

 


朝日新聞「啓蒙的近代が終わり私たちは立ちすくむ/福田和也」(2003年4月15日・夕刊)

 

この人の著作「作家の値打ち」は面白かった。具体的な攻めどころがはっきりしている。小池真理子の題材の−富豪の

末裔とか軽井沢の出会いとか−目が点になるリアリティの無さを指摘しながら小説としての完成度はきちんと評価している

大人の主観的批評は共感。(そこにおける評価に賛同できるかは別として−石原慎太郎の「わが人生の時の時」は最後まで

読めなかったよ、アホ臭くて...)

 

で、朝日の記事。趣旨としてはアメリカの怪物性を正しく認識して「反米も親米も役に立たなくなった」(記事中の見出し)

ことを知れということ。しかしこれ、地球儀を見ながら旅行しているような勘違い、左翼的インテリ的東海道中膝栗毛を感じる。

確かに感傷的な反米、反戦も、また民主主義の布教に賛成するものとしての親米も、どこか私には馴染めない。しかし福田氏の、

高度IQを駆使した逃げ切りにはまた疑問を抱く。

 

偶然であるが、この紙面の隣の記事が、近代日本文学を研究し、「千と千尋の神隠し」のアカデミー受賞から日本のアニメの

アメリカでの理解を語ったスーザン・ネイピア氏であることは、妙な組み合わせだ。

 


そんなに偉いか、山本夏彦

 

亡くなった方ではあるし、多大な業績を残された方であることへの基本的な敬意は払っているつもりだ。しかし彼の

周りの人たちの、ある種「信者」的な姿勢には疑問を抱かざるを得ない。妄信的愛好は、もとより氏の望むところでは

ないはずだ。

 

きっとチャーミングな人だったのだと思う。辛口ではあるが、その奥には深度のある人柄と大人のユーモア。そんな

キャラクターは早々いない。しかし、そのことと書いてあることの是非は別だ。氏の文章を、あくまで一個人の「視点

芸」として楽しむのは結構。しかしそれを日本人とか文明批判の道具に使われても困る。人の褌で相撲、とはこのことだ。

 

“もとより役人は賄賂が好きで、それを言いたてるのは野暮。たまたま貰う側に行けなかったものが正義ぶっている。”

なんて科白はカッコいいかもしれない。でもその奥にどこかこの国の大人の持つ幼稚さを感じてしまう。賄賂なんかダメに

決まってるだろう。氏の文章の洗練、日本語の美しいリズムは誰しも認めるところだろう。しかし、歌唱力とメッセージは

別のものだ。

 


それが仕事だろ!

 

最近、他人の戸籍謄本を入手して、勝手に養子縁組をする詐欺が続いているらしい。いつの時代も、いろんなことを

考える奴がいるもんだと思うけど、問題はそこではない。(その頭、他で使えよ、と思うけど、それは奴らにはアホ
らしいのかも)その対策として、役所の窓口で本人と確認できる免許証や写真入IDなどの提示を関係機関が示唆した
ところ(え、今までなかったんだっけ?)、「仕事量が増えるのですぐには対応できない」と現場の声が挙がったという。
アホか!
それが仕事だろう!こういう話を聞くと、ホントこの国に住んでいるのが悲しくなる。

 

もちろん彼ら、彼女たちが大変なことも(そうでない人も多いと思うけど…)理解はできる。俺が世話になっている
板橋区の職員さんは、ほぼ親切だし、用件に対して前向きだ。しかし、こんな談話が出ること自体、非常識だ。
市民がどう感じるか思いもよらない、その想像力のなさがヤバイ。まあ口先だけ上手い政治家−と言ってもアメリカに
比べれば日本の政治家がウブに見えるけど−よりはましかもしれないけれど、そんなものと比べても仕方ない。

 

昔勤めていた会社が、神田の鎌倉橋近くにあって、そのそばに手打ちの美味いうどん屋があった。うどんは最高なのだが、
店のおばちゃん何を勘違いしたか、えらくタカビーであった。ある混んだ昼、「すいませーん」と声をかけると、
「今忙しいんだから!」と怒っている。アホンダラ!客がおるから忙しいんやろ!お前の給料どこから出てんねん!
と叫びたかったが、まだ初々しかった俺はムカッとして店を出ただけだった。

 

どっちも情けない話だが、目の前の仕事の山しか見えず、本来の役割を忘れているのは、結局仕事に使われているということだ。
俺も含めて気にしておきたい。ちょっと大きなところから、もしくは他人の目からその出来事を見てみることを。しかし件の
職員が例のうどん屋に行ったら(あるいは逆)、どんな会話が交わされるのだろうか。

 


どーなんだ、日刊ゲンダイ?

 

威勢のいい見出し、言い切る文面に興味をひかれて覗き読むと、出だしの勢いがだんだん腰くだけになってくる。例えば
しばらく前の、松井ヤンキース入りに関するメディアの大騒ぎを批判した記事。確かに日本のマスコミのはしゃぎ方は
(いまに始まったことじゃないけど)、ちょっとみっともなかった。でも同じくメディアとしてそれをどう書いているかと言うと、
確固とした論旨、主張がなくて「くだらん、けしからん」と吠えているだけに見えなくもない。

 

俺が期待したのは、自分たちの行動で報道のあり方を示すこと。一例を挙げれば、アメリカのスポーツメディアにおいての松井評や
その対応と、日本の場合の比較なんかも面白いかもしれない。それはジャーナリストとしての(ですよね?)冷静な視線と日々の
勉強があれば、考えついてもいい企画であるはずだ。

 

思い起こせばJリーグ発足当時の「日本の選手は海外では通用しない」の論調も、あまりにお粗末でした。それゃ、世界の壁は厚いさ。
しかしそこに何を見出し、メディアとして何を提言するか、全く見えてこない。「仕事に疲れたサラリーマンの息抜きだから」
というのでは、あまりにもサラーマンを舐めてませんか?「金持ちは悪いやつ、男前は馬鹿ばかり、偉い人は人非人」的な噛み付きは、
もう終わりにするべきだ。

 


羊の大胆、野良犬の臆病


俺は用心深い方だと思う。と同時に比較的規則を守る方でもある。まじめなんですね、となかば嘲笑的に言われる

こともある。あるとき、仕事で海外に行った。割と大勢だ。私は、ツアコンなしでも最低限自分で動けるように、
日程表や注意事項をよく読んだ。だからちょっとした用事(電話をかけるとか)は、自分で何とかなった。他はほと
んど、何かあると人まかせだった。そうしない自分は、彼らからすると「まじめですね」だったのだろう。滞在2、
3日して、ちょっとしたトラブルが起こった。皆はざわつくだけで何も行動にできない。しかし難しいことではない
のだ。状況を見て、誰に何を言えばいいのか、その判断だけである。目立たないように、解決にちょっとだけ手を貸した。

大勢で生きる人は、その根拠ない安心感を当たり前だと思っている。あれこれ心配するのは小心者のすることさ。

確かにそうだ。私は、所詮、結局、ひとりで行くしかないと思っている。だから慎重にもなるよ。チェックイン時に

ホテルの非難口を確認する人間を笑う、その大胆さは欲しくない。

野良犬、というのは古臭いカッコのつけ方のようでちょっと恥ずかしいけど、気分としてはそういう言葉。でも結局
トラブル解決の後、また「まじめでなんですね」と言われてしまった。今度は助けないぞ。

 




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