☆日々の雑感
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未完成が好きだ。 (2003/08/10 U) これは銀座にある改修中のビルの一角。新しいブティックでもできるのかもしれないが、 コンクリート剥き出しの壁やぶら下がった配線の束はどこかモダンアートのインスタレー ション(ちょっと安易かな…)のようで、このままでも面白い。昔から建築中のビル−鉄の 枠組みと頂上に聳える巨大なクレーン−や施工中の家を見るのが好きだった。完成して いない物のカッコよさに魅かれてしまうのは、いい歳してまだ未熟者だからだろうか? |
傲慢と鈍感の間 (2003/07/30
R)
ここのところ政治家たちの確信犯的な失言が取りざたされることが多いけれど、その発言に内容の是非とは別の
苛立ちや反感を覚えることはありませんか。俺はあります。正しい正しくないとは別に、彼らの態度にやり切れない
ものを感じることがある。こうした人間に共通しているのは、自らの言葉を受け止める人々への想像力の貧しさだ。
「国民が騒ぐのはマスコミのせい」と言わんばかり(実際言ってるけど)の彼らのコメントは、ホント俺たちを馬鹿に
している。彼らにとってメディアとは、単に自分の目先にいる記者たちのことなのか。新聞記事やカメラの向うに大勢の
人間がいるのが見えてないのだろうか。
日本と違って情報操作の重要性を知っているアメリカの政治家のような狡さ−これはこれで厄介だ。しかしその狡ささえ
備えることなく、聞きたい声だけ聞いている彼らの幼稚な傲慢さ、そしてそれを支えている救いようのない鈍感さに、ちょっと
言葉を失いそうだ。(でも書くけど)あ、読売新聞のオッサン、あんたも入ってるよ。
美しきバカものども (2003/07/19 S)
先日テレビのボクシング番組で、アルツロ・ガッティVSミッキー・ウォードというスーパー・ライトの試合を見た。タイトルマッチ
ではないのにメインイベントとなる人気のカードである。その人気は両者の壮絶な殴り合い。二人とも高水準のテクニックを
持っているがファイターとしての熱い血が時折それを越えてしまう。過去の2戦の戦績は両者一勝一敗だが、前回は若い
(現在31歳)ガッティが足を使ったクレバーなファイトで判定勝ち。一方いま37歳のウォードは、勝っても負けてもこれが最後の
試合となる。
試合は予想通り、若いガッティがスピードとテクニックでベテランのウォードを翻弄していく。軽く放ったジャブもそのスピードと
的確さでウォードのガードを抜けて顔面に届いている。おっさんやばいぜ、と思っていると後半いいパンチが入ってウォードが
ダウンを奪う。このまま逆転かと思われたが、体力の限界は既にきていたようで後一歩の詰めができない。一方ガッティは切れ
味のいい攻撃が復活、最終ラウンドを迎えた。判定は順当にガッティ。目一杯殴りあったふたりがリング上で抱き合う場面は、
わかっていても美しかった。
しかしまさに殴り合い。解説者が「殴り合いというのは、殴られあいですから」という言葉に妙に納得。あまりの凄さに、見ていて
思わず「お前らバカじゃねーのか!」と呟いてしまった。これは最大級の褒め言葉である。なんか熱かったなぁー。俺もバカじゃ
ねーのか、と言われるくらい突っ込んでものごとやんなきゃな、とシンプルな感慨を持った。あれがテレビではなく後楽園ホール
だったら、きっと「シュッシュッ」とかシャドーボクシングしながら出て行ったんだろうなー。
無責任ゴーゴー! (2003/07/13
U)
植木等の無責任男は、いま見ると全然無責任には思えない。格好だけで意味ないことをパスした結果、物事が
上手くいっているというのは結構なことじゃございませんか。一方で日頃は重々しく、またもっともらしく振舞う政治家や
経営者たちの、問題発生時の身のこなし。あれこそ無責任一代男(女もいるけど)なのではないか。
「おまえ、責任取れるのか!?」ある上司に言われたことがある。彼のやり方とは異なる方法で仕事を進めようとしたときだ。
その件に関しては判断に自信があったから、ひと言「はい」とだけ答えて作業にかかった。実はどう責任を取るのかなど考えて
いなかったのだが、逆に責任の付きまとわない仕事などあるのか、という疑問が沸いてきた。何をしたって責任とやらは付いてくる
ものじゃないのか。従順であることで責任が回避される世の中って、ちょっと情けないっす。
ともかくいい年して(いい年じゃなくても、だけど)何かやるときは、好むと好まざるに関らずもれなく責任が付いてくる。
だったらガンガンいきましょうぜ、後で人のせいにするのは無しとして、と植木等は僕らに言っているような気がする。
えっ、そんな大袈裟なこと言ってない?言ってない…そうですか、こりゃまた…(寒くなってきたので以下略)
あなたも起業でパブルスター! (2003/07/05
S)
「今どき一円で何ができるというのだ。」「それがダンナ、会社が作れるんですよ。」というのは本当の話で、
平成15年2月から会社設立に関する法律の変更によって資本金が一円でも会社組織の設立が可能に
なった。(幾つか制限はあるのだが)ということも関係しているのか、最近「会社にしがみつくより自分で起業」
というムーブメントを感じる。男性週刊誌の「女性の本音、こんな男に誘われたい」みたいな記事では
若い女性やOLに評判いいのが(この価値観自体トホホではあるのだが)外資系エリートと青年起業家。
かつての大企業(特に商社)やマスコミ等の業界(そろそろ実態がバレている)のランクはかなり下がっている。
それはどうでもいいとして、「俺も自分で起業して稼ぐぞ!」というその意気やよし。しかしその流れに、どこか
かつてのバブル期の株式、不動産ブームに重なって見える部分がある。一時期「お金があるのに株やらない
なんてバカじゃない?」「こんないい物件買わないあなたは狂ってます。」(こういう煽り文句、ホントにあった)
寄らば大樹、ではなく自分の力で生きていこうとする精神は、とても尊いことだ。他の誰でもない、自分という
個人でいるために。だからこそ起業をただのブームにしてしまうことを警戒したい。会社の一員で在り続けること
だって、個人でいるための立派なオプションである。社会制度として起業の壁が低くなることは大歓迎であるし、
そのノウハウを共有できることも素晴らしい。(一部の胡散臭い起業カリスマの増殖は副作用としてあるとして)
だからブームじゃなくて、ホント個人で考え決めることなのだ。メディアは「若き成功者」を取り上げるばかりでなく
必ずその裏に存在する失敗もきちんと伝えるべきである。だいたい個人の意思と実力が問われる起業を、皆やるから
俺もやる、つーのおかしくない?
ブラボー、オンナの個食。 (2003/06/13
F)
再び外食ネタ、でもこれは極めて個人的な話です。ひとりで食事している女の人を見た。彼女たちは、不断あまり
見たことのないタイプの魅力を持っていた。ここではそんな女性たち、ふたりほど取り上げてみます。
銀座のやや外れのラーメン屋に、遅い昼飯を食べようと入ったら、カウンターの一方の端っこで30前後と思しき
女性がひとりでラーメンを食べていた。まだ肌寒い頃で、深いえんじ色の薄手のタートルネックに、厚手の織りの
グレイのスカート姿。会社勤めというより、法律事務所かなんかで働いているような控えめで知的な雰囲気だった。
(勝手な想像だけど)そのラーメン屋ではライスがサービスでついてきて、お代わりも自由。沢庵を刻んだような
お新香があって、これもなかなかいける。彼女は坦々麺を食べながら、間にご飯に手を伸ばしている。いい食べっ
ぷりだ。ちゃんと働いて、ちゃんと食べているという感じ。そうするうちに彼女の茶碗が空になった。「すいません、
お代わりください。」すくっと茶碗を差し出す手のまっすぐな伸び方が潔かった。
もうひとりはかなり年配の方。巣鴨のナイスな定食居酒屋、ときわ食堂では混雑時には相席になることがある。
(店の人がちゃんと気配りしてくれるから、全く問題はないのだが)自分の近くのテーブルに、多分70を越えて
いるだろうお婆ちゃんが席に着く。「てんぷら定食ください。」とさくっと注文して、出てきたものをもくもくと、きちんと
食べる。背中は少し曲がっているようだったが、印象の中では「背筋をしゃんと伸ばして」見えた。きれいに食べ
終えると相席の男性に軽く一礼し、「ごちそうさまでした」と店員に声をかけ、レジに向かった。それだけのことで
あるが、すべての動作に「自分のことは自分でやる」という在り方が見えた。とてもインディペンデントなのだ。
彼女たちの食事風景が、何故こんなに印象に残っているのだろう。食べることは生きること、または生きるために
食べる、という当たり前のことをシンプルに、明快に見せられたからかもしれない。もしかしたら、全く俺の勝手な
思い込みかもしれない(よくあることなので)。しかしそのときの「オーッ」という感服感(回文みたいだけど)には何か
があるはず。では男はどうするのか。ともかくしっかり食おう。薀蓄とかやめといてさ。ある仕事の知り合いの「高級で
おいしいワインも好きだけど、必死で仕事をして、安いワインやビールを『旨いなぁ』と言える人生でありたい。」という
言葉が忘れられない。
放っておいてくれ、店長。(2003/06/12
R)
グローバルダイニング(ラ・ボエム、ゼスト、モンスーンカフェや権八の経営母体)社長の長谷川耕造氏によると、
「レストラン業は、お客様喜ばせ業」なのだそうだ。確かに。俺たちが店に行くのはただメシを食ったり酒を飲んだり
するだけではないからだ。「客がカップルか、仕事仲間か、家族か。カップルなら口説いている最中か、熱々か」を
判断して席を選んでもらうのはいいかもしれない。しかし余計なお世話じゃないか?一度三宿あたりで、深夜急に
思いついて集まった友人4、5人と店に入ったら、奥の奥、トイレに行くときは非常に便利なテーブルに通された。
歳でトイレが近いと思われたのが、みんなジーンズにTシャツのラフな格好だったからなのか。そんな細かいことを
やっている暇があったら、もう少し料理や飲み物のことを勉強してくれてもいいと思うのだけど。
もっとも問題なのは客の方かもしれない。そういうもてなされ方が、そんなに嬉しいことか。自分で見つけた店で、
自分なりの遊び方をすればいいんじゃないか。俺は接客のプロ意識を否定するものではない。しかしサービスの
本当の意味は、もっと深いところにあるんじゃないか。小ぎれいで多少メシが旨くて値段が高いマクドナルドに行く
理由が自分には見つからない−もっとも店の方も来てもらいたいとは思ってないだろうけれど。
社員の禁煙も推し進めている長谷川氏によると喫煙者は「無知蒙昧か意志薄弱か自己破壊主義者」だそうだ。
ということは彼の店に来る客の多くは、そういう人たちということになる。彼らの健康に感謝。
※6月7日土曜日の、朝日新聞「be」面の記事を参考にしています。
ヘイ、ベイビーからヨォ、メンへ / シャウトして歌いたい日本語 (2003/05/28 W)
映画「8マイル」を見た。バトルの決め手になるという点で、ライムの技術がこんなにスリリングなものかと
あらためて思った。日本のヒップホップもかなり盛り上がっているようで(よくは知らないけど)彼らにとっても
ライムの追求は重要なのだろう。しかし中には寒い感じがするものもある。韻を踏むための半ば無理矢理な
言葉の選び方を感じることがあって、その寒さにはどこか覚えがあった。
かつて日本のロックファンは、イギリス、一部アメリカの音に熱狂しながら、密かに自国のバンドを待っていた。
はっぴいえんど、ジャックス、四人囃子、クリエイション(竹田和夫先生!)や沖縄の紫等などいかしたバンドは
幾つかあったが、ルーツであるフォークミュージックの匂いや、借り物のぎごちなさは若干残っていた。それは
彼らの音楽性の問題ではなく−それは間違いなく素晴らしかった−日本人の血にロックというものがうまく
混じりきっていなかったのだ。ギターやベースの技術はあっという間に追いついても、リズムとボーカルの
パワーとドライブ感は、もうひとつ薄い。それ強調していたのが、「ヘイ、ベイビー」とか「イエイ、カモン」−なんか
遺影、家紋みたいだが−という掛け声だ。(上のバンドはそういうのなかったと思うけど)悲しく、寒い瞬間だった。
日本のロックはまだ冬なんだな、と思った。
結局日本のロックが様になるためには言葉も大きく関わっていて、ビートと言葉の接点が見えたことで音が
確立されたのだと思う。エレカシとかいいしね。逆にそういう寒さを持っているのは、もうB'zくらしかいない。
もしかしたら日本のラップは、これからが面白いのかもしれない。そう思うとちょっと楽しくなってきた。
「じゃないですか禁止令」をめぐって
佐藤雅彦の「毎月新聞」の最初の記事は、「じゃないですか」というものの言い方に異議を唱えるもの。異議を唱える、
というのはこの人に似合わないかもしれないけれど、実は結構硬派なところがあると思う。佐藤氏らしい、鋭い視点と
キュートな表現で書かれている。簡単に言うと「じゃないですか」と言う物言いの持つ、個人の意見や欲求をあたかも
一般的に認められた価値、意見であるかのようにすり替えていく気持ちの悪さ−堅く言うとその奥にある欺瞞(プチ欺瞞、
みたいな感じ?)を指摘したものだ。その通り、と納得。しかし自分でも時々使っちゃうんだよな。
きっと楽なのだと思う。論点をあからさまにしない気楽さがあって、それは「どーも」とか「ていうか」「みたいな」等々
の言い方に共通するものだ。日本人って物事をはっきりさせないんだよな、とかいう評論家もいるだろうが、特に日本人だ
けとは思わない。アメリカの若い世代はよく"kind of"とか"sort of"を話の中で使うことがあるが、意味合いとしては「〜的な、
みたいな」ニュアンスがあって、「ていうか、やっぱ俺的にはOK、みたいな感じ?」という気分は近いんじゃないだろうか。
"I
kind of like a wild type of guy." 「私、なんかワイルドな感じの男の子が好きかも。」こんな感じ?(微妙に違ってたら
失礼。)
本当に親しい人間と喋るとき、「じゃないですか」を使うだろうか。相手の意図を探りながらもの言う必要がないのなら、
そういったクッションのような言葉は必要ないんじゃないだろうか。
「俺イズム」が出回っている
このサイト自体がそうかもしれないけれど、個人サイトの中には「ここは私の場所だから自分の好きに書く」という
スタンスで作られているものが多い。それはOK。情報やプライバシーに関わる基本的なルールが守られているならば、
何でもありだし、そうでなくっちゃ面白くない。しかし時々感じる、ひ弱な我の強さ。「俺のサイトだから、嫌なことは
聞きたくない。」という強気な逃げの姿勢。異なるものをシャットアウトして満足かもしれないけれど、何か格好良くない
んだよな。最初に俺イズム宣言をすることによって、意見やクレームに対しては「だから言ったろ、ここは俺のシマだぜ」
と言うつもりなのかもしれないけれど、こっちだって文句言いたきゃガンガン言うもんね、俺としては。
朝日新聞「啓蒙的近代が終わり私たちは立ちすくむ/福田和也」(2003年4月15日・夕刊)
この人の著作「作家の値打ち」は面白かった。具体的な攻めどころがはっきりしている。小池真理子の題材の−富豪の
末裔とか軽井沢の出会いとか−目が点になるリアリティの無さを指摘しながら小説としての完成度はきちんと評価している
大人の主観的批評は共感。(そこにおける評価に賛同できるかは別として−石原慎太郎の「わが人生の時の時」は最後まで
読めなかったよ、アホ臭くて...)
で、朝日の記事。趣旨としてはアメリカの怪物性を正しく認識して「反米も親米も役に立たなくなった」(記事中の見出し)
ことを知れということ。しかしこれ、地球儀を見ながら旅行しているような勘違い、左翼的インテリ的東海道中膝栗毛を感じる。
確かに感傷的な反米、反戦も、また民主主義の布教に賛成するものとしての親米も、どこか私には馴染めない。しかし福田氏の、
高度IQを駆使した逃げ切りにはまた疑問を抱く。
偶然であるが、この紙面の隣の記事が、近代日本文学を研究し、「千と千尋の神隠し」のアカデミー受賞から日本のアニメの
アメリカでの理解を語ったスーザン・ネイピア氏であることは、妙な組み合わせだ。
そんなに偉いか、山本夏彦
亡くなった方ではあるし、多大な業績を残された方であることへの基本的な敬意は払っているつもりだ。しかし彼の
周りの人たちの、ある種「信者」的な姿勢には疑問を抱かざるを得ない。妄信的愛好は、もとより氏の望むところでは
ないはずだ。
きっとチャーミングな人だったのだと思う。辛口ではあるが、その奥には深度のある人柄と大人のユーモア。そんな
キャラクターは早々いない。しかし、そのことと書いてあることの是非は別だ。氏の文章を、あくまで一個人の「視点
芸」として楽しむのは結構。しかしそれを日本人とか文明批判の道具に使われても困る。人の褌で相撲、とはこのことだ。
“もとより役人は賄賂が好きで、それを言いたてるのは野暮。たまたま貰う側に行けなかったものが正義ぶっている。”
なんて科白はカッコいいかもしれない。でもその奥にどこかこの国の大人の持つ幼稚さを感じてしまう。賄賂なんかダメに
決まってるだろう。氏の文章の洗練、日本語の美しいリズムは誰しも認めるところだろう。しかし、歌唱力とメッセージは
別のものだ。
それが仕事だろ!
最近、他人の戸籍謄本を入手して、勝手に養子縁組をする詐欺が続いているらしい。いつの時代も、いろんなことを
考える奴がいるもんだと思うけど、問題はそこではない。(その頭、他で使えよ、と思うけど、それは奴らにはアホ
らしいのかも)その対策として、役所の窓口で本人と確認できる免許証や写真入IDなどの提示を関係機関が示唆した
ところ(え、今までなかったんだっけ?)、「仕事量が増えるのですぐには対応できない」と現場の声が挙がったという。
アホか!それが仕事だろう!こういう話を聞くと、ホントこの国に住んでいるのが悲しくなる。
もちろん彼ら、彼女たちが大変なことも(そうでない人も多いと思うけど…)理解はできる。俺が世話になっている
市民がどう感じるか思いもよらない、その想像力のなさがヤバイ。まあ口先だけ上手い政治家−と言ってもアメリカに
比べれば日本の政治家がウブに見えるけど−よりはましかもしれないけれど、そんなものと比べても仕方ない。
昔勤めていた会社が、神田の鎌倉橋近くにあって、そのそばに手打ちの美味いうどん屋があった。うどんは最高なのだが、
店のおばちゃん何を勘違いしたか、えらくタカビーであった。ある混んだ昼、「すいませーん」と声をかけると、
「今忙しいんだから!」と怒っている。アホンダラ!客がおるから忙しいんやろ!お前の給料どこから出てんねん!
と叫びたかったが、まだ初々しかった俺はムカッとして店を出ただけだった。
どっちも情けない話だが、目の前の仕事の山しか見えず、本来の役割を忘れているのは、結局仕事に使われているということだ。
俺も含めて気にしておきたい。ちょっと大きなところから、もしくは他人の目からその出来事を見てみることを。しかし件の
職員が例のうどん屋に行ったら(あるいは逆)、どんな会話が交わされるのだろうか。
どーなんだ、日刊ゲンダイ?
威勢のいい見出し、言い切る文面に興味をひかれて覗き読むと、出だしの勢いがだんだん腰くだけになってくる。例えば
しばらく前の、松井ヤンキース入りに関するメディアの大騒ぎを批判した記事。確かに日本のマスコミのはしゃぎ方は
(いまに始まったことじゃないけど)、ちょっとみっともなかった。でも同じくメディアとしてそれをどう書いているかと言うと、
確固とした論旨、主張がなくて「くだらん、けしからん」と吠えているだけに見えなくもない。
俺が期待したのは、自分たちの行動で報道のあり方を示すこと。一例を挙げれば、アメリカのスポーツメディアにおいての松井評や
その対応と、日本の場合の比較なんかも面白いかもしれない。それはジャーナリストとしての(ですよね?)冷静な視線と日々の
勉強があれば、考えついてもいい企画であるはずだ。
思い起こせばJリーグ発足当時の「日本の選手は海外では通用しない」の論調も、あまりにお粗末でした。それゃ、世界の壁は厚いさ。
しかしそこに何を見出し、メディアとして何を提言するか、全く見えてこない。「仕事に疲れたサラリーマンの息抜きだから」
というのでは、あまりにもサラーマンを舐めてませんか?「金持ちは悪いやつ、男前は馬鹿ばかり、偉い人は人非人」的な噛み付きは、
もう終わりにするべきだ。
羊の大胆、野良犬の臆病
俺は用心深い方だと思う。と同時に比較的規則を守る方でもある。まじめなんですね、となかば嘲笑的に言われる
こともある。あるとき、仕事で海外に行った。割と大勢だ。私は、ツアコンなしでも最低限自分で動けるように、
日程表や注意事項をよく読んだ。だからちょっとした用事(電話をかけるとか)は、自分で何とかなった。他はほと
んど、何かあると人まかせだった。そうしない自分は、彼らからすると「まじめですね」だったのだろう。滞在2、
3日して、ちょっとしたトラブルが起こった。皆はざわつくだけで何も行動にできない。しかし難しいことではない
のだ。状況を見て、誰に何を言えばいいのか、その判断だけである。目立たないように、解決にちょっとだけ手を貸した。
大勢で生きる人は、その根拠ない安心感を当たり前だと思っている。あれこれ心配するのは小心者のすることさ。
確かにそうだ。私は、所詮、結局、ひとりで行くしかないと思っている。だから慎重にもなるよ。チェックイン時に
ホテルの非難口を確認する人間を笑う、その大胆さは欲しくない。
野良犬、というのは古臭いカッコのつけ方のようでちょっと恥ずかしいけど、気分としてはそういう言葉。でも結局
トラブル解決の後、また「まじめでなんですね」と言われてしまった。今度は助けないぞ。