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ノンアルコール・ハイ

「休肝日」という言葉はあんまり好きじゃない。なんだか飲むことが仕事のように聞こえてしまう。(実際そういう人もいるわけで、それはそれでOKなんだけど)しかし実際飲むことが続くと、ちょっとひと息つきたくなるのも正直なところで、夜を野菜中心の軽いものにして(美味い魚とか焼き肉とかだと、つい飲みたくなっちゃうじゃないですか)水とお茶で済ましてみた。で、翌朝なんかいいんですよ。睡眠時間の関係もあるだろうけれど、身体も頭もしゃきっとしていて「何でもできちゃいそうだな、俺」みたいな気分。(却ってヤバいか...)飲まないことで逆にハイになってる感じが新鮮だった。この勢いでバリバリやると、きっと夜は酒が美味いだろうな、と思うのでした。なんか変?


人のセックスを笑うな 山崎ナオコーラ

第41回文藝賞受賞作(もう一篇は「野ブタ。をプロデュース」白岩玄)で、タイトルとペンネームの勢いは抜群だ。審査員の高橋源一郎は「それだけで賞をあげてもいいと思ったけど、読んでみたら作品もよくて安心した」とコメントしていたが、確かにこの人、うまいんです。19歳の美術専門学校生、男が語り手となって話は進んでいくのだが、その作られたリアル感―普通は絶対言わないだろうけど小説中ではやけにリアルで自然に聞える―は考えて書けるものではないだろう。

<夕日のあまりのきれいさにびっくりする。まるで透き通るマグロの切り身のよう。>と言われると「お前(主人公)、頭良くなさそうだけど、わかるよそれ」と思ってしまったり、<しかし恋してみると、形に好みなどないことがわかる。好きになると、その形に心が食い込む。>という台詞には「そーだな、俺もそーゆーことあったよな」とはめられてしまう。で、ほほーっと感心して読み進めて行き着くところは、「失恋って寂しくて、あの人に側にいて欲しいと思うことなのね」という正直な感情。でもこれだけ自然(に見える)で斬新な語り方されたら割と素直に納得してしまうかもしれない。普遍的な感情を語るには、独自性のあるアプローチが必要なのだ。

この一作は「こういうのもアリか」と思わせた時点で勝ちなのだろう。それだけの完成度がある。で普通の感想になりますが、次回作にも期待、つーことで。


アトリエ 山田詠美

読み始めた瞬間、今年の文學界1月号に掲載された「間食」を思い出した。同じ著者による、ガテン系技術職の男とぽわんとした女性の登場する短編だ。「間食」の花も「アトリエ」のあーちゃん(麻子)も、男女の関係を味覚や触覚のように感覚的に捉えるタイプで、“あんまりモノを考えない不思議ちゃん”のようなキャラクター。ふたりの関係は一見男がイニシアティブをとっているようで、実は女の方がそうもっていっていると、というか男を駆り立てているという気がする。

俺は山田氏のきちんとした読者ではないけれど、過去の作品に登場する女性たちはもっと能動的に見えた。で、最近の登場女性が受動的かというと決してそういう感じではなく、彼女たちは別の方法で恋愛を生きているのだという気がする。著者については福田和也の「山田詠美はモラルの人」というコメントがすげー当たってる、と思ってよく引き合いに出したのだが、それは少し変わってきているのかも知れない。「男と女、別に前向きじゃなくてもいーじゃん、お互いよければ」みたいな印象がある。(それはそれでまた新しいモラルなのだろうか)やや唐突な終わり方の微妙に尾を引く感じも「熟練の腕前」という感じだ。いい作品だと思う。


マンハッタンの鷹

ネット版の朝日でこういう記事を読んだ。<NY名物鳥の『タカの巣撤去』アパートに市民抗議>―五番街の高級アパート(927 Fifth Avenue)の12階あたりのひさしに居を構え、10年近くニューヨーカーの人気者だったアカオノスリ(red-tailed hawk)の巣が管理者によって撤去されたのだ。アパート側は「住人の合意」と説明しているが、市民や環境団体は猛烈な反発を見せ、プラカードを掲げたりその前を車で通るときはクラクションを鳴らすなどの抗議活動が起こっている。街の人気者を抱えて連日望遠カメラを向けられる住人たちのフラストレーションも判らないではないが、やはりちょっと乱暴じゃないか。

この話で思ったのは「タカの巣は誰のものか?」ということ。確かに建物自体は住人のものだ。でも同時に彼らは、この街に住むことの恩恵―楽しさとかステイタスとか―を十二分に享受しているはずで、五番街の高級アパートで巣作りをする野生動物、というトピックはそのニューヨーク的な楽しさのひとつではないのだろうか。一方鳥のファンたちにとっては、「オラが街の一部」であり「ほぼ自分たちのもの」だったのだと思う。

それをいきなり除去してしまうのは、この街に似つかわしい行動とは思えない。度を過ぎた取材(中には鳥を撮るふりをして住んでいる著名人を狙った人間もいたかもしれない)にはルールを設けて規制したり、生態について生物学者に相談したり、何かできることがあったはずだ。(そこそこ金持った人間が住んでるわけだし)何かトラブルが起こったときは、楽しみながら前向きに解決する―それがニューヨーク的解決法だと思うのだが。話題のアカオノスリは、後日セントラルパークで飛んでいる姿を目撃されている。


出さなかった手紙(もしくはEメール)

割と感激屋なので、グッとくる文章を読んだりサイトを見たりするとついついその人に手紙やメールを書いてしまう。昔は一刻も早く読んで欲しい、みたいな勢いで投函したのだけど、後で考えると勢い余ってちょっと気持悪かったかもしれまない。あるビジネスマンの文章に感銘して出した手紙とか、改めて考えると結局自分のことを書いているだけだったりして。

素敵なものを見聞きするとすぐいっちゃうところは変わらないのだが、最近はパソコンのメモにパタパタと打ちこんでしばらく放っておくようになった。時々のぞいて手を入れたり、醒めたり恥ずかしくなって消しちゃったり、やっぱり出したりと後はいろいろ。手紙の推敲をしているようなものだけど、やってるうちにその文章にではなく自分に突っ込みを入れてるような気分になってくる。「『頑張ってください』『頑張ります』とか安易に言っていないか」「感銘した、という言い分の自己主張じゃないのか」「根っこの部分に嫉妬や反感がないか」とか、頭の中にポップアップしてくるものを吟味していると、ひと口に感激とかいう感情も結構雑多に混じって出来ているのだなと思う。(その辺もあって、やたらと「感動」を口にする風潮は好きになれないのだが)


似たもの同士?

「冬のソナタ」と「ノルウェイの森」(1987年!)みんな純愛にジーンときちゃう頃なのかな。(後者をそう呼ぶのはちょっと違うと思うけど)

ネット掲示板の「そんなこと言ってるからお前はダメなんだ」的突っ込みと、団塊の世代的「君の生き方に問題があるんだ」みたいな議論。意外とノリは似ているような気がする。

「たかが選手」発言のナベツネと、「社員は利益をあげる道具」と言うホリエもん。球団経営に関しては別サイドに立ったふたりだが、その姿勢はどこかダブるところがある。


村上ワールド アップデート / アフターダーク 村上春樹

車の性能は、排ガス規制時のパワーダウンみたいなケースは別としても、モデルチェンジを重ねるごとに良くなっていく。ただし人気がそれについてくるかというと、必ずしもそうではないようだ。俺は旧車ファンではないが、たまに70年代(古いか...)のスカイラインやセリカに出くわすと、自動車というよりも工芸品のように感じられて見いってしまうことがある。

「アフターダーク」を読み終えての感想もちょっと近いものがあった。複数のストーリーラインを持ちながらも流れは明解で、文章は簡潔なのに物語はきちんとふくらんでいる。作者のメッセージらしきものもうっすらと感じるのだが、押付けがましくはない。小説としての完成度(車としての完成度、みたいな感じで)はとても高いと思う。

しかしこれが村上ワールドの魅力かと聞かれると、素直に頷けないのだ。「風邪の歌を聴け」から「羊をめぐる冒険」あたりの青臭さに惹きつけられ、「ハードボイルド・ワンダーランド」からの小説の可能性探しが気になり(以降の氏の作品はすべて、小説に何ができるかという試みだったと俺は思っている)、「国境の南、太陽の西」あたりから徐々に熱は冷めてきたけれど、一応読み続けてきた者からすると、「アフターダーク」はどこかで見た風景、どこかで聞いたセリフで成り立つデジャブのような世界にも思えてしまう。「私たちは見ている」という物語の語り口はスタイルとして新しくはあるが、それが新しい視点を生み出しているとは感じられない。

なんか村上さん、大人になりすぎちゃったのかな、という気がしなくもない。最近読んだ「地球のはぐれ方」でもそんなことを思ったのだが、昔感じたこの人なりのやさぐれぶりとかチンピラ感みたいなものが、実は結構いいスパイスだったような気がするのだ。以前ある文芸誌で著者が語っていたレイモンド・カーヴァーの話を読んで、その文学への真摯さに素直に感銘した覚えがある。しかしその姿勢とは違うものが小説を書くときには必要なのかもしれない。

もし乱暴に、100点満点で点をつけろと聞かれたらどう答えるだろう。いろいろ書いて、甘いと言われるかもしれないが、70点くらいはつけちゃいそうだ。少なくとも最後まで気持ちよく読むことのできた一冊だったし、読んで(おいて)よかったとも思う。今聞いてみたいのは、これまで氏の作品を読んでこなかった人たちの感想。もしかしたら俺の読み方とバージョンが違うかもしれないので。


ラミティエ@高田馬場

一部ではこの店、「高田馬場の奇跡」と言われているそうだ。確かにその味と値段、それから居心地のよい雰囲気を考えると、こういうプリフィクスのレストランの中でも間違いなくトップクラスだといえるだろう。シーフードを食べると、舌の奥のほうで海の味がする。ジビエの季節に食事をすると、野生の香りに出くわす。(グルメじゃないけど、田舎育ちだからそういう感覚がちょっと判るのさ)やっぱワシらは自然をいただいとるんだな、と改めて感じてしまう。でも俺は、それを奇跡とか呼んで祀りあげるよりは一軒の真っ当な食堂として普通に付きあっていきたい…しかし前菜と主菜のセットランチが1,050円って、やっぱこれは奇跡かもしれんね。


ニュースの天才

原題:Shattered Glass Dir: Billy Ray / Writer: Billy Ray / Cinematographer: Mandy Walker

実際の記事捏造事件をもとに作られているので社会派ドラマ...かと思うとそうでもないようだ。まず第一に、主役のスティーブンが好感の持てる青年であることは感じられるのだが、何故あそこまで同僚に愛され支持されていたのかわからない。彼自身が魅力的に見えてこないと、ドラマとしての深みに欠けるような気がするのだ。純粋な犯罪ものやアクションならともかく、こういう実話に基づいた物語の肝は「もしかしたら自分や周りの誰かも同じことをしたかもしれない」という「普遍性」みたいなものに達していくことだと思う。それが無ければ見る人間は映画の中に入っていけない。

演出は丁寧だが「何か足りないなー」と思いつつ終わってしまったという印象がある。【ちょっとネタばれ...】主人公の幻想である母校でのシーンも、ストーリーとのからみ具合がちょっと弱い。もしかすると、アメリカのジャーナリズム内の厳しい競争がもう少し見えてくると違ってくるかもしれない。社会的ステイタスは高いとは言え、給料面ではそれほど凄いわけでもない。転職、首切りも多く、日本と比べても勝ち負けのはっきりした世界だと思う。その中でスティーブに何が起こり、どう道が狂っていったのかということがくっきり描かれればもっとグッとくるあがりになったと思うのだけどなぁ...

ただ編集スタッフたちの人間関係?インテリジェンスとカジュアルさとサラリーマンなところのバランスはなかなかいい具合で、そういう意味での臨場感は楽しむことができた。1時間40分足らずとコンパクトにまとまっているのだから、もう少し物語を足しながら煮詰めていけばもっと面白い一本になったような気もする。残念!(つー言い方使いづらくなってきたなぁ)


ウディ・アレンのすべて 井上一馬

生い立ちからキャリア、恋愛や結婚などの私生活的側面まで判りやすく述べられた教科書みたいな一冊。考えてみたら凄いタイトルだ、「すべて」とまで言い切っているのだから。しかしそんな著者の思いは確かに伝わってくる。真面目に客観的に書かれてはいるが、自分のヒーローについて語る子供(最近いるのかなぁ、そういうの)のように「聞いてよ、知ってる?」と上気して語る井上氏の様子が見えるようだ。

ウディ・アレンという人は、自分の好きな比較的小さな世界をずっと掘り続けているうちに、ずいぶん深くまでいっちゃった、という感じなのだと思う。だから映画を革新しようとか、そういう野心的なあり方には縁がない。だからこそ、そんな彼が嫌いなハリウッドまで足を運んで出席した昨年のアカデミー賞の授賞式は感動的だった。ニューヨークという一都市を愛する感情を彼らしくシニカルにユーモラスに語ることで、平和に対する気持ちを呼び起こさせてくれた。

その会場の興奮はテレビでも充分感じることができた。「スター」の面々が席を立ち、本当に目を輝かせて拍手をしている。(まあ役者だから、つーのもあるかもしれないが...)このときのアレンは、確かにヒーローに見えた。ミア・ファーローは違ったかもしれないけど。


リスクとプライド

ライブドアの堀江社長、「リスクをとって成功したのだから、不必要な謙遜などしない」とか。「稼ぐが勝ち」「金で買えないものはない」の氏らしい発言だけど、この科白はどかこ子供っぽく響く。親に言われて勉強した子供が、テストでいい点をとってご褒美をねだっているように聞こえるのだ。そういうリスクを楽しめるのがホントの起業家ってもんじゃねーのだろうか。それに謙遜って、ジャケットみたいに身につけるものじゃなくて内側から出てくるものだと思うんだけどな、と思いつつ「いま会いにいきます」のCMで嫌そうにコメント(「大切な人と見に来るといいんじゃないですか」とか)している姿は微笑ましかった。(あれ伊集院光じゃないよね)


隠れて電話すること

会社で、廊下のすみや階段で電話している人を見た。以前は、よっぽど聞かれたくないことでもなければ別にデスクとかその辺で話してもいいんじゃないかと思っていた。仕事をちゃんとしていれば、常識の範囲内であれば大して問題でもないし、どこに行っても聞こえるときは聞こえているからだ。しかし最近ではちょっと違うのかな、とも思っている。

「聞かれたくない」という意図が見えれば、多くの人は結構聞かないようにするのではないかと思う。(却って耳ダンボ状態を招く場合もあるけど)しかしあまり堂々とやられると「お前らに聞かれても関係ねーよ」みたいに取られるのかもしれない。俺も遠慮して話している人間がいると、ちょっと外してやろうかな、という気になるし。こういうのって日本だけだろうか。そんなこともないと思うのだけど。(アメリカだって結構彼らなりの気の使い方があるのだ)



責任転嫁ちゃう?

日本テレビの氏家会長は「今、単独で視聴率が取れる選手は松井君ぐらい。清原君が残留したところで全く関係ない」と言い切ったそうだが、それってトップの発言としては?である。単なるスター頼みでしかない。まず清原を使いこなすことを考えてこそ、初めて経営努力をしたと言えるはずなんだけどなぁ。

中山成彬文部科学相は学習到達度調査の結果について「要するに勉強しなくなったんじゃないですか」と述べ、「『僕は勉強したいから塾に行きたい』と子どもの方から親にお願いするぐらいでないといけない」とコメントしたそうだ。しかしそういうモチベーションを高めていくためには、勉強することの意義や目的をきっちり表明することがまず第一で、それは当のご本人の役目ではないのか。

自ら先頭に立ち何かするべき人間が、「お前らしっかりやれ!」とか言いながらどっかり座っているのがこの国の特徴のひとつなのかもしれないが、そろそろ通用しなくなってくるよ。てゆーか、そこは変わっていかなくちゃ。